不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
2月号
巻頭
「食う者は食わざる者を侮る勿れ、
食わざる者は食う者を議する勿れ」
今年の教会の暦では、2月はほぼ「大斎準備週間」の期間に当たります。大斎準備週間とは「税吏とファリセイの主日」から、「蕩子の主日」「断肉(審判)の主日」、そして「乾酪(赦罪)の主日」に至るおよそ1か月の期間です。この1か月は大斎に備えて徐々に食生活を変化させるように指示されています。ファリセイの主日から蕩子の主日までの1週間は「不禁食週間」とされ、水曜日、金曜日の斎が解除されます。「何を食べてもいい」ということです。そして断肉の主日の翌日から獣肉、鶏肉(場合によっては魚肉も)を食べることをやめ、乾酪の主日以降は卵、乳製品も節制し、いよいよ大斎が始まります。この準備週間はその後の40日(受難週も含めれば50日近く)の節制と断食の日々の、文字通り「準備」の期間として据えられているわけです。
食の節制は大斎における最も分かりやすい目標であり、私たちを心身ともに鍛えることができるとても素晴らしい挑戦です。しかし同時に私たちは、食の節制とともに精神的な節度もまた身につける必要があります。どのような節度なのか、それは聖使徒パウェルが教えてくれます。準備週間の各主日の聖体礼儀で読まれる書簡(聖使徒経)内で、パウェルは再三節制や食について言及しています。それによれば「私たちはすべてのことが許されている(1コリ6:12)」「食べないからといって何かを失うわけでなく、食べたからといって何かを得るわけではない(1コリ8:8)」のです。食べ物の節制をしようがしまいが、それが直接私たちの救いに繋がるわけではありません。これから大斎で節制と断食の日々を始めようという時期にこれらの箇所が読まれることの意味は重要です。私たちはつい食の節制それ自体の意味に捕われ「この日はこれを食べてよいのかどうか」「魚は肉かどうか」「友人との食事で肉が提供された」などの事柄に思い悩んだりします。聖使徒パウェルはそのような悩みに対して「食の節制自体が目的なのではない」「もっと大切なことを考えろ」と示しています。
何がもっと大切なのか。それは兄弟や隣人との関わりです。使徒の時代から禁欲的に食の節制に取り組む人もいれば、そこまで熱心に取り組まない人もいたのでしょう。パウェルはどちらの方が優れているとは言いません。「食べる人は主のために食べる。神に感謝しているから。食べない人も主のために食べない。そして神に感謝している(ロマ14:6)」。そして「食べる人は食べない人を軽蔑してはいけないし、食べない人は食べる人を裁いてはならない(ロマ14:3)」のです。神への感謝、愛を持って、各自が各自なりに取り組んでいることについて、他人があれこれ裁いたり軽蔑したりしてはなりません。私たち一人一人がそれぞれに神のしもべであり、「他人(神)の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか(ロマ14:4)」とパウェルは警告します。食の節制は自分自身の課題であって、他人がどのようにそれに取り組んでいるかについて首を突っ込むことは決して斎の精神に合わないことです。兄弟や隣人にはその人自身と神にしか分からない気持ちや考えがあり、その人自身が取り組むべきその人自身の課題があるのです。節制している人が節制していない人を「あの人は悪い」と裁くことを神は喜ばないし、節制していない人が節制している人に「そんなことは意味がないからやめればいい」と誘惑することも論外です。まして斎において節制の生活をしていることを見せびらかし、自己アピールの手段にすることなどもってのほかです。それは偽善者のすることであると主は戒めています(マタ6:16-18)。
このように大斎準備期間に当たって、私たちは食べ物の節制に備えて体の準備をするとともに、精神面でも支度をしていかなければなりません。食べ物の節制だけではなく、兄弟や隣人への裁きや不寛容の心もまた強く戒めていかなければならないのです。全ての人がそれぞれ神のしもべであり、全ての人が神から特別な愛情を注がれた存在です。そのことに敬意と尊重を持ち、良い意味で「他人は他人、自分は自分」という認識を持つこと(他者への無関心ではなく)。もしかしたらそれこそが最も重要な「大斎の準備」なのかもしれません。
エッセイ
「地は爾の造物にて満ちたり」
今年はうさぎ年だそうです。教会でうさぎって何かエピソードがあったかなと考えてみると、晩課の冒頭に読まれる103聖詠の中で「盤石(いわお)は兎の避所(かくれが)なり」と書かれています。とはいえこの「兎」、日本で広く流通している聖書協会の翻訳では「岩狸(イワダヌキ)」となっており、このイワダヌキはタヌキではなく、ネズミのような見た目と大きさですがしかしネズミの仲間でもなく、現存する動物の中ではゾウやジュゴンと近縁の「ハイラックス」という生き物のことだそうで、何ともややこしい…。(ハイラックスと言えば、トヨタの車を思い出す方もいるかもしれませんが、あのイメージとも違う丸っこい生き物なんですよね)
ともあれ動物というものは大変面白く興味深いものです。また動物園などで生きた動物たちを見ていると、何で世界にはこんなにたくさんの生き物がいるのだろうかと不思議な気持ちにさえなってきます。
先に挙げた103聖詠でも「鹿」「鶴」「獅子」「大魚」などが登場し、旧約聖書の時代の人々もまた世界に溢れる動物たちを見て驚嘆の心を抱いたのだろうなと思わされます。そして多様な生き物たちが、生き生きと暮らしているのを見て「神はこの世界を善いものとして創造した」という確信を抱いたのではないでしょうか。キリスト教は神による世界の創造を信じます(進化論の否定という意味ではなく。進化もまた神の創造の計画の一部なのかもしれません)。そして「神は自分の作ったものを見てはなはだ善しとした」ことが重要であると考えます。これは創世記に書かれていることですが、単に「聖書に書かれているから真実だ」と「理解する」「納得する」性質の事ではなく、私たち一人一人が自然や生命に触れ、「この世界は素晴らしいものだ!」と心の内から湧き上がってくる思いによって証される事柄でしょう。
時として自然は、本を読んだり難しい話を聞いたりすることより雄弁に世界の真実を語りかけてきます。正教徒として初日の出を拝む必要はないですが、しかし水平線から上がってくる太陽の輝きに感動することはあるでしょう。太陽の光を通じて、私たちはその創造主の偉大な業を知ることができます。これは知識と言うよりは、神の創造物である人間が持つ「神との繋がり」「神を知る知恵」が、創造物に内在する神の善性によって激しく揺り動かされることによって起こる事柄です。
動物を見て可愛いと思ったとき、美しいと思ったとき、自然の姿に心打たれたとき、思いのやり場もないほど心が動かされたのならば、私たちはそのエネルギーを神への讃美として捧げるべきです。「こんなに善きものを造るなんて、神よ、あなたはなんと素晴らしい創造主なのだ」と。
「主よ、爾の工業(しわざ)は何ぞ多き、皆智慧を以て作れり、地は爾の造物にて満ちたり」