top of page

​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

8月号
​巻頭
「此は我の至愛の子、我が喜べる者なり、彼に聴け」

 正教会では、祈祷を始める時、祈祷文を区切るとき、祈祷を締めくくるとき、しばしば「父と子と聖神」の名を唱えます。また洗礼の時には必ず「父と子と聖神」の名によって水に浸かります。言うまでもないことですが、この「父と子と聖神」とは私たちの神である「至聖三者」を示す言葉であり、三位一体の神を表しています。至聖三者とは私たちの信仰の向くべき本質的な目標ですが、一方で私たちが至聖三者を完全に理解し捉えることは全く不可能なことでもあります。人間となった神・子、イイスス・ハリストスは絵にも描かれ、使徒たちや人々と触れ合った記録が福音書として残っていて、その「人物像」を捉えることは比較的容易です(もちろんハリストスの本質を私たちが理解することは依然困難なことですが)。しかし「至聖三者」の神秘は光の彼方に隠され、私たちの知性や感覚による理解、把握の及ぶものではありません。


 しかし新約聖書の中には、その隠されている至聖三者の存在が示される箇所がいくつかあります。そのうちのひとつが神現祭の出来事です。イイススがヨルダン川で洗礼を受けたとき、天が開け聖神が鳩のような形で現れ、「これは私の愛する子である」という父の声が響きました。そしてもう一つ、至聖三者の姿がより鮮烈な形で表現されたのが8月に祝われる主の変容祭、別名顕栄祭の出来事です。ハリストスはペトル、イヤコフ、イオアンの3人の弟子とともに山に登り、そこで光り輝く姿を表しました。光る雲が彼らを覆い、その中で「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」という声が聞こえました。声の主は父である神であり、光る雲は聖神を示しています。弟子たちは溢れる光の奔流の中で至聖三者と出会いました。全く理解が及ばないお方ではありつつも、神がご自身をお示しになるのならば、私たちは至聖三者と出会うことができるのです。この至聖三者との出会いが私たちキリスト者の究極的な目標です。


 神・父はハリストスを示してこう言います。「これは私の心にかなう者であり、これに聞け」。ハリストスは至聖三者のお一方として、父である神の意志を携えこの世界に遣わされました。ハリストスは私たちの住むこの世界で神・父の意志を示します。子である神の別名は「ロゴス=ことば」です。神・父は、イイススをご自身の意志そのものであり、信じるに足る方であるということをご自身の声で証明しました。神の言葉であるイイスス・ハリストスを私たちは信じ、頼り、弟子たちが山に連れていかれたように私たちも主に付き従っていくのです。私たちの人生は主と弟子たちが山の斜面を登っていったようなものです。そんな主と私たちを神・聖神は雲のように優しく包みこんでくださっています。至聖三者は私たちからはるかに隔絶された神秘でありながら、同時に私たちに最も近しいお方なのです。主の変容の光に浴するのは選ばれた使徒たちだけの特権ではありません。私たちの最も身近にいるお方がその姿をほんの少し垣間見させてくださったとき、私たちもまたその光を見るのです。そのことを信じて、私たちもこの人生という山道を登っていきましょう。

​エッセイ
​「神さまは見てござる」

 私は教会の仕事に就く前は、輸入ワインを個人向けに販売する会社の営業マンをしていました。営業という仕事は、毎日一定の仕事をこなしていくのとは違う難しさがあります。嘘のように次々と商品が売れていく日もあれば、何をやっても売り上げゼロが並ぶ日々もありました。この波の上げ下げに翻弄されながらもなんとか日銭を稼いで、かいくぐって生きていくのが営業マンという職種です(大企業の営業ならまた違うのかもしれませんが…)。

 また営業に付き物なのがちょっとした運の良し悪しの差です。見本市で同僚と二人で販売をしていたとします。向こうから二組のお客が歩いてきて、それぞれ接客を始めました。こちらは1時間も商談をして契約に至らなかったのに、同僚はものの10分で10万円の契約をまとめてしまった。2人の営業力の差があったとしても、実のところはどちらのお客に声をかけたかの時点で勝負がついてしまっていることが多々あります。なんであの時、あっちの人に声をかけなかったんだろうと悔やんだところでどうにもなりません。
 このように売れ行きに一喜一憂しながら、いやむしろ売れない苦しさにほぞを嚙みながら苦悶の表情で販売をしているとますます売れ行きが悪くなってくるのがまた営業にはありがちなことです。するとそんな姿を見かねてか、能天気なことで評判の先輩が近づいてきて声をかけてくれました。「松っちゃん、大丈夫だて。神さま見てござるて」。こてこての名古屋弁で喋りながら背中をバシバシと叩かれます。気を取り直して、次のお客さんに声をかけて営業を始めます。結果まあ大型契約とは言えないですが、なんとかしのげる程度の売り上げは作ることができました。「ほれ見い、神さま見とらっせるでしょうー」。くだんの先輩がニカっと笑って声をかけてきます。

 この先輩は別にクリスチャンではないので、彼の言う「神さま」は私たちの「神さま」とは違うかもしれません。でも「神さまは見てござる」という感覚自体は私たちも決して忘れてはならないものでしょう。苦しい時も、辛い時も、その苦悩に立ち向かっている姿を神さまは見ているよ、だから大丈夫だよ、と思えるか思えないかで、私たちの人生の生きやすさは大きく変わってきます。苦しくても一生懸命頑張っている人を神はちゃんと見ている。そう信じることで次の一歩を踏み出せることもあるでしょう。そして神を頼みながらなんとかかんとかやっていれば、ひょっこりと解決の糸口が掴めてしまったなんてこともしばしばあります。

 人生の大きな苦悩に比べたら、営業マンの1日の売り上げがどうなるかなどは小さな悩みに過ぎません。しかしこの時言われた「神さま見てござる」という言葉には救われたし、案外とその後も私の心を支える言葉になったなあと思うのです。

bottom of page