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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

7月号
​巻頭
「試みに天空の鳥を観よ、彼等は蒔かず、刈らず、倉に積まず
而して爾等の天の父はこれを養う」

 「人生一寸先は闇」などという言葉がありますが、私たちは誰も自分の未来に起こることを正確に予想することはできません。優秀なコンサルタントが、あらゆる分析をして人生の設計図を作ったとしても、極端な話、次の瞬間に空から降ってきた隕石に撃たれてしまうことだって無いとは言えないのです。主は人々に「明日のことを思い煩うな」と教えられました。明日何を着ようか、何を食べようかと悩むな、必要なことは神が与えて下さるとイイススはおっしゃっています。


 イイススがこのことを教えるときに「先のことは何にも分からないのだから無駄である」という意味でこの言葉を言ったのではありません。むしろ重要なのは「神を信頼しなさい」ということです。野の草花や小鳥たちにだって愛と恵みを注ぐ神があなたたちをないがしろにするはずがないではないかとイイススは言います。先々のことを思い煩うのは、それは自分の人生を自分の力で自分の思い通りに完全にコントロールしたいと思っていることの裏返しでもあります。自分がなるべく不幸にならないように、不自由をしないように十分な備えを蓄えておこう、そうすればきっと大丈夫だと人々は思い込みますが、しかしそれは決して満たされることはありません。なぜならば人生で先々に何が起こるか、人間は本質的には分からないからです。そしてその分からなさから次々と湧き出てくる不安感にいずれ圧し潰されてしまいます。


 イイススは「人は神と富に兼ね仕えることはできない」と言います。富とは単なる財産のことだけではなく、自分の人生をすべて無事にコントロールしたいという執着心のことも示しているかもしれません。この執着を手放さなければ見えてこないものがあります。自分の人生は神に委ねよう、今日できることに一生懸命取り組み生きて、それがどのような結果となるかは神に任せよう。そう決心することで見えるようになるものがあるはずです。自分が頑張れる範囲の外側のことは神が計らってくださいます。思い煩いという執着心を捨て、神を信頼し、神の意志、御心を受け入れて生きようと決心することが謙遜さであり信仰なのです。

​エッセイ
​「ビリヤード」

 私が大学生の頃、友人とよく行っていたボウリング場にビリヤード台がありました。なんとなく面白そうだったので簡単なゲームのルールを覚えプレーしてみると、キュー(手に持っている棒)で白い手球を打ち、場のボールにぶつけて穴に落としていく感覚が小気味よく、しばらく仲間内でビリヤードブームとなったことが思い出されます。


 ビリヤードではぶつけられたボールが次のボールにぶつかり連鎖的にボールを動かしていくことがあります。またゲームプレーの始まりには、三角形なりひし形なりに並べたボールの一番先頭のボールに手球を強くぶつけ、そのエネルギーが伝わった各々のボールはぶつかり合って場のあちこちに散らばっていきます。球が当たったのは先頭のボールだけなのに、その結果はすべてのボールに及びます。またプレーヤーがキューで突けるのは白い手球のみですが、手球に与えられたエネルギーは間接的に場にある全てのボールに関与していく可能性があります。


 私はしばしば人間はビリヤードの球のような存在だと感じます。良いことがあった時、人はその嬉しさで良いエネルギーが満ち、次に出会った人にその良いエネルギーを伝播することがあります。喜び笑顔になった人が、その笑顔を他者に向けるだけで次の人にも喜びをもたらします。「恵み」という神の手球に突かれた人は、その恵みの力を次の人に受け渡していくことができ、その連鎖がこの世界をより良いものとしていきます。


 逆に悪い感情に突き動かされた人が、その怒りや憎しみを誰かにぶつけた場合、そのぶつけられた人にも悪いエネルギーが満ち、今度はその人が次の人に怒りや憎しみの力をぶつけていく連鎖も起こり得ます。悪魔の突いた手球はたった一つでも、その一つをきっかけとして無数の人々を罪に落とし込んでいくこともまたあり得るのが人間というビリヤード球の恐ろしいところです。私たちが悪を行ってしまう時、その悪は自分と相手だけで完結しないのです。悪を行われた人の背後の無数の人々へ、今度はそのぶつけられた人がぶつかる人となって罪を波及していく。悪を行うということは自分が思っている以上の罪の結果をもたらすということを恐れなければなりません。地球の裏側で起こっている殺し合いは、もしかしたら私たちが突いたほんの小さな一発のボールの連鎖の果てなのかもしれないのです。
しかし私たちがこのビリヤード球と違うことがあります。それは私たちに意志があるということです。神からの良い恵みを受けたのであれば、私たちはそのエネルギーをより加速して、強いエネルギーとして次の人に渡すことができます。悪魔の一突きを食らって怒りにかられそうなときは、そのエネルギーを減衰し、コースを変えて誰にもぶつからないようにすることも、また自分の意志として行うことができます。それこそが私たち人間が人間である所以であり、ただ突かれて弾き飛ばされる球ではない人間の尊厳です。私たちもまたこのビリヤードに参加しているプレーヤーなのです。ただのボールではない、意志あるボールとして神の勝利のため善き力を伝え、悪しき力を減らす、そういうものでありたいですね。

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