不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
6月号
巻頭
「我爾等に別れず、爾等と偕にす、人の爾等に敵するなし」
私たちキリスト者は主イイスス・ハリストスについて「神である方が人となった」と信仰を告白します。永遠の神の独り子であり、神・父である方とまったく同じ神性を持つ三位一体のお一方である方が、神であることを全く減ぜずに人間としてこの世に入られました。これは私たち人間にとって大きな喜びです。神は私たちと同じ完全な人性を引き受けられ、神の子イイススという一人のお方のうちに神性と人性を分かちがたく結びつけました。私たち人間は弱く、神からはるかに遠いはずの存在でしたが、「同じ人間」であるイイスス・ハリストスと結びつくことにより、私たちは神に限りなく近づく道筋を得ることとなりました。ハリストスは一人の人間として、生まれ、育ち、食べ、飲み、喜んだり悲しんだりしてこの世を生きました。それは私たち一人一人が生きていくことと同じことをイイススもなさったということです。私たちの喜びも悲しみも神みずからが味わわれ、私たちの人生のあらゆる局面が神である方によって引き受けられました。ついには侮辱されること、迫害されること、憎まれること、そして人々に捨てられ孤独に死を迎えることまでもご自身のものとされました。神である方が人となったということは人間という存在に内包されるすべてをご自身に引き受け、神性と結び合わせることを意味しています。神は人間を高いところや外側の離れたところから救うのではなく、人間の一員として人間の内側から救おうとされました。これが主の降誕、受肉の祝いの本質です。
そして主は受難の後、墓に葬られ三日目に復活しました。死はイイススにより引き受けられました。今度は生命がイイススにより与えられます。ハリストスにおいて人性と神性が完全に結び合っているから、人間の含む全てが神に結ばれます。同様に神性と人性が完全に結び合っているから、神の永遠の生命が人間に分け与えられるのです。人間は神からはるか遠い存在でありつつも、ハリストスにおいて神に最も近しい存在となったのです。
復活の後、主は山の頂上から天に昇っていきました。これを使徒たち、人間たちとの別離の場面だと思ってしまうのならばそれは違います。主が降誕において神であることを一切減じずにこの世に入られたのと同じく、主は人間であることを全く減じずに昇天したのです。ハリストスはいまだ、完全な人間として存在されています。ですからハリストスが成し得たすべてのことは私たち人間と共有されており、ハリストスが歩んだ道は私たち人間も歩むことのできる道筋なのです。私たちもまた、やがて死の眠りから脱却し、まったく新しい光り輝く姿で神の懐に入れられ、その永遠を享受することができる。そのことを主は昇天する姿によって示されました。この喜びを祝い、私たちに開かれた栄光の道を讃えるのが昇天祭なのです。
エッセイ
「美味しい」
テレビのバラエティ番組などが発祥と思われる「美味しい」という言葉があります。決して美味な食べ物を食レポするときの言葉ではありません。ではなくてちょっと失敗してしまったり、かっこ悪かったりする瞬間を映されてしまった時に、「かえって美味しいからええやん」というアレです。バラエティなどではしばしば出演者がいろんな企画に挑戦し、その挑戦をどのようにクリアしていくかの様子を放送しています。料理を作ってみるだったり、目的地まで飲食店を探してバス旅をしたり、気難しげな大御所芸能人と若手芸人がロケに行ったり(普段見ている番組がバレそうですが…)。そういった挑戦の中ではしばしばチャレンジ的には「失敗」と呼ぶしかないような場面に出くわします。森の中で道に迷ってしまったり、大御所に小言をもらったり、面白いことを言ったはずなのに全然ウケず大スベリしてしまったり(「それも演出」と言わない)。そのような失敗シーンになってしまっても、トータルに見ればその失敗そのものが面白く、結果的には悪くなかったという時に「美味しい」と言えるわけです。
私たちの人生にもいろいろと想定外のことが起こり、必ずしも最初に思っていた通りにいかないことが多々あります。また何かにしくじってしまって、とてもカッコ悪く恥ずかしい思いをすることもあります。そのようなときに「いやいや、こういう経験もできてかえって美味しいやん」と思える人はしなやかで強靭な人と言えるかもしれません。それはただ鈍感で無神経なわけではなく、実はあらゆる状況を受け入れられる柔軟性を持っているからできることです。多くの人の目の前で派手に転んで笑われたら恥ずかしいでしょう。しかしそこで恥ずかしさに打ちのめされて唇を嚙んで下を向いていても「転んだ」という事実はもう覆しようがありません。しかし転んでカッコ悪かったけれど、みんなが笑ったからよかった、と「逆に美味しい」と立ち上がるならば、人々はかえってその強さを認めるかもしれません。あるいは笑いにできないような本当に深刻な失敗をしてしまったとしても、その痛みを体験したことで、二度と同じ間違いを犯さないような教訓を得ることができるかもしれません。それはそれで「美味しいこと」と言えるでしょう。
私たちキリスト者は人生に起きるあらゆることを神から与えらえた一つの「シーン」として捉えることができます。そのシーンで成功しても失敗しても、本人次第でその結果は「美味しい」ものにしてくことができるはずです。どうせなら「美味しい」人生を送りませんか?