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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

5月号
​巻頭
「新たなるイエルサリムよ、光り光れよ」

 私たちは復活祭で「新たなるイエルサリムよ、光り光れよ」と歌います。これはパスハのカノンの第九歌頌のイルモスで、また復活祭期の間は「つねにさいわいにして」の代わりにも用いられます。さて、この「新たなるイエルサリム(エルサレム)」とはいったい何なのでしょうか。エルサレムとはご存じの通り、今日でもイスラエル国の首都であり、かつて3000年ほど前、ダヴィド王がその地をイスラエル王国の王都として以来、ハリストスの時代まで、イスラエルの人々の心の中心地であり続けました。そこには特別な神殿があり、イスラエルが神の国であることを証しするような町でした。


 この「新たなるエルサレム」という言葉は聖使徒イオアンの黙示録に登場する言葉であり、この世が終わり全てが更新される時に現れる光り輝く神の町として描写されます(イオアン黙示録21章から22章)。そこには「もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みも(21:4)」ありません。私たちが死者のために祈るときに歌う「病も悲しみも嘆きも」無い場所です。つまり端的には私たちに約束されている「天国」と言い換えてもいいかもしれません。その「新たなるエルサレム」が復活祭の聖歌として歌われる意味、それは主の復活と私たちの希望である天国がとても密接な関係にあるということです。
私たち人間は罪に陥り、神の懐を離れ、「永遠」の対極にある存在に堕落してしまいました。私たちの病も死もその結果であると教会は教えています。人間はいつも滅びに怯え、本当に大切なものを見失い、悲しんだり争ったり憎みあったり絶望したりして生きています。神はそんな人間を憐れみ、ご自身の独り子をお遣わしになりました。私たちの主イイスス・ハリストスです。神の子は人の子となり、私たちのすべて、弱さも悲しさもお引き受けになりました。ついには死さえご自身のものとされました。しかし主は死の三日目に復活し、新しい生命を人々に示しました。それは私たちに約束された生命です。私たちが神とともにある限り、神から与えられる新しい復活の生命です。私たちはたとえ死んでも生きる(イオアン11:25)のです。主の復活によって、私たちには新たなるエルサレムへの道筋が開かれました。


 またこの「新たなるエルサレム」という言葉には来たるべき天国以外に含意されている概念があります。それは「教会」です。この教会とは単なる建物、あるいは人間の地上の組織を越えたものです。至聖三者の名によって洗礼を受け、主の血と体を食べ、主と一体となった「ハリストスの体」としての教会です。私たちが日々自分たちの教会に集まり、ともに祈り、ご聖体を分かち合うということはまさにこの「新たなるエルサレム」への入城なのです。皆さんはなかなか目にする機会がないとは思いますが、聖体礼儀において司祭が皆さんより一足早くご聖体を領食した後、司祭は毎回「ハリストスの復活を見て」「新たなるイエルサリムよ光り光れよ」と主の復活を讃える祈祷文を読んでいます。私たちが聖体を受けることは主の復活の目撃であり、新しいエルサレムの獲得であることが祈祷の形によって示されています。


 私たちはまもなく主の復活祭を迎えます。それは私たちキリスト者の原点である祭の祭、祝いの祝いです。いつも教会に熱心に通っている人も、しばらく足が遠のいている人も、熱い信仰を持つ人も、半信半疑の人も、みな集まって主の復活を喜びましょう。そして光り輝く新たなるイエルサリムの一員として、この喜びを分かち合おうではありませんか。

​エッセイ
​「ロジックと実感」

 先日あるビジネス書のさわりを読んだところ、楽天ゴールデンイーグルスの社長を務めた人物のビジネス論、リーダー論が載っていました。当時あまり芳しいとは言えなかった球団の経営状況を、コストカットではなく売り上げ=観客動員数の増加で解決した原動力について語られています。売り上げを増やして収支を改善するというのはもちろんそれがベストであることは皆知っていますが、コストカットやリストラと比べて即効性に乏しく、地道で長いスパンの努力が必要です。決して簡単なことではありません。しかし彼がそれをできると信じた根拠は何だったのか、ということが記事の主眼でした。それは幼い頃にこの社長が神宮球場のナイターに連れて行ってもらったことだと社長は語ります。

「ものすごくまぶしい光が降り注ぎ、僕は思わず手の平で目を覆いました。それと同時に、ウワーッという地鳴りのような歓声に包まれ、『おおおお!なんだこれは!』と言葉にならない感情がこみあげてきました。あの『強烈にワクワクする感覚』は、いまだに生々しく覚えています。そしてあの瞬間に、『野球ってすごい!』『野球って面白い!』という感動が、僕の心の奥深くに刻み込まれたのです」

 この実感があったからこそ、社長は観客増員、売り上げ増による経営改善に確信が持てたし、社員たちともビジョンが共有できたのです。この感動を広く伝えていけば、必ず球場に足を運ぶ人は増えるに違いないと信じることができました。この社長は結論として、人を動かすのに重要なのは、最終的には「ロジック」ではなく「実感」によって思考を深めることではないかと言っています。理詰めだけでは物事の本質的な部分を掴むことはできないのです。


 彼の原点が「球場」という現場での「感動」にあったという点で、私は大変この記事に感銘を受けました。というのも教会も同じだと思うからです。キリスト教の精緻な神学は1000年以上編み上げられて、書店に行けば学術書としてその一端に触れることができます。「教会について」の情報はインターネットや新聞記事にも溢れています。しかし「教会」そのものを知るためには結局「教会」という現場、「奉神礼」という現場に来なければ何も分からないのです。多くの人が教会を「情報」で理解しようとし、時に情報に振り回されてうろたえたり、あるいは見当違いの解釈をしていたりするのを残念に思います。教会は本の中にも、新聞の中にも、ましてスマホのSNSの中にもありません。教会は「奉神礼」の現場の中にあるからです。教会の奉神礼の中で得た実感こそが教会を動かし育み続けてきた原動力です。「ハリストスの復活とは何だったのか」といくら理詰めでロジカルにアプローチしてもその答えにはたどり着きません。しかし復活祭の奉神礼には、主の復活の生々しい実感に圧倒される体験があります。その体験の原点は使徒たちが復活した主に出会った時の驚きと畏れ、そして歓喜であり、その輝かしい使徒の体験が私たちの奉神礼にも脈々と受け継がれているのです。


 この社長が神宮球場でカクテル光線と地響きのような歓声の中で味わった感動以上の感動が、真夜中の闇の中で光り輝く教会にあります。「ハリストス復活」「実に復活」と呼び交わし、この大いなる歓喜を共に味わいましょう。

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