不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
4月号
巻頭
「神の欲する所には天性の順序勝たれて、人に超ゆる事は行わる」
正教会が教える事柄の中で、もっとも理解が難しく私たちの常識を超えていることは「イイススが死から甦った」ということであり、それと並んで不可解なのが「イイススが処女であるマリヤから生まれた」ということかもしれません。生き物がオスとメスの交わりによって新しい生命を生み出すというのはいまさら説明するまでもない「常識」です。それが常識であったことは、今から2000年前、生神女マリヤが生きていた時代においても同様でした。現代ほど科学が発展していない当時であっても、子供は父母の交わりによって生まれるという因果関係は疑うべくもない事柄だったことでしょう。マリヤだってそのことは十分知っていたはずです。
ある日マリヤが祈っていると天使ガウリイルが現れ、マリヤに「あなたは神の子を生む」と告げました。それはマリヤにとって予想だにしないメッセージだったことでしょう。「神の子」という部分をひとまず置いておくとしても、結婚もしておらず、男性との関係もいまだかつて持ったことが無い少女が「子供を生む」ということはいかにも不可解でした。マリヤはガウリイルに素直にその思いを告げます。「夫の無い私が子を生むことなんてあるでしょうか」。ガウリイルは「神にできないことはない」と答えました。マリヤはそれではと「私は主の召し使いですから、その言葉の通りになりますように」と返事をしました。これが聖書の伝えている生神女福音の出来事です。
マリヤでさえ、自分に告げられたことが不可解極まりないことであると思ったのです。不安や疑いも感じたかもしれません。しかしそれでもマリヤは「神の言葉を受け入れる」という意志を示しました。ガウリイルの言ったことは訳が分からないし、それがどのように自分の身に起こるのかも分からないけれども、神の正しさを信頼し、神の意志に自分を委ねることを決意しました。このマリヤの決意こそが生神女福音の出来事の中で、もっとも褒め称えられるべきことです。マリヤは自分の意志として、神の意志を受け入れることを表明しました。逆に言えば、マリヤには神の言葉を拒む自由もあったのです。生神女がイイススを懐妊したことは、不可解なことを神を信頼して自分の身に引き受けたことから始まっています。
私たちも信仰生活の下で、どうしてそんなことが信じられるのかというつまずきを感じることがあるでしょう。「死者の復活」も「処女懐胎」も私たちの常識から外れています。もっと言えば、「天国」も「神の実在」についても私たちの常識の範疇で理解できるような「証明」はしようもありません。しかしそれでも私たちは神を信頼しようと意志することはできます。分からないことや不可解なことを拒絶する、あるいは逆に無理に捻じ曲げて理解した気になって自分をごまかすのではなく、不可解に感じている自分も含めてすべてを神に委ねる生き方を選ぶことはできます。分からないこと、理解できないことはまだ自分には明かされてないことであり、神は必要なときに必要なことを明かしてくださる、と不可解さを棚に上げたまま信仰に入ることもできるのです。生神女マリヤは自分自身についてどのようなメカニズムで神の子を孕み、どのように男性無く子を生むのかを追求して理解した結果として神の言葉を受け入れたのではありません。ただ神を信頼して委ねたのです。私たちも不可解さを無理に解決しようとしたり、逆に不可解さに蓋をして疑問を無かったことにしたりするのではなく、生神女の素直さでもって、自分の意志として神を信頼し神に委ねる生き方をしたいものです。
エッセイ
「アックマンとアクマイト光線」
先日漫画家の鳥山明氏が永眠されました。私はまさに鳥山明氏の漫画で育った世代で、物心ついたころにドラゴンボールの連載が始まり、鳥山明&週刊少年ジャンプ全盛期を過ごしたと言っても過言ではないでしょう。
さて、そんな鳥山明氏のドラゴンボールで、少年時代の私が戦慄を覚えた敵が登場します。ピッコロ大魔王でもなくフリーザでもなく。それは「アックマン」。ドラゴンボール読者でも「え、誰だっけ?」となりそうですが、アックマンはまだドラゴンボールがほのぼのコメディ漫画の匂いを残していた、悟空の子供時代の敵キャラです。このアックマン、「アクマイト光線」という必殺技を持っており、これはこの光線を当てられると人間が誰しも持っている「悪の心」がどんどん膨れ上がり最後に身体が爆発四散してしまうという恐るべき技なのです。
「どんなによい子ぶったやつにも絶対に少しは悪の心がある。そのわずかな悪の心をどんどん膨らませれば爆発を起こす。お前はこっぱみじんになって死ぬのだ!」
……なんと恐ろしいことでしょうか。わりと「よい子」だった私はアックマンのこのセリフに恐怖しました。結局無邪気な悟空には「悪の心」が無く光線は不発に終わり、アックマンは倒されますが、しかし「どんなやつにも絶対に悪の心がある」というアックマンのセリフは私の心に残り続けました。
私たちは多くの場合は、普段から悪の心を剥き出しにして生きているわけではないと思います。しかしよくよく覗き見ればそんな私たちの心の中にも、「利己主義」「嫉妬」「恨み」「傲慢」「卑屈」「欲望」「憎悪」など「悪の心」が存在しているのが見えるでしょう。私たちが悪に傾くとき、心の中ではその悪の心が膨れ上がっており、しまいには自分で制御できないほどの大きさになって、「やさしさ」や「冷静さ」という「善い心」を圧し潰していってしまいます。そうなると悪い感情のままに暴走し、最後には自分も他者も傷付けて結局誰も得をしないという状況を招きます。それは「アクマイト光線」を当てられた人が膨れ上がった悪の心で爆発してしまうのと同じなのです。
残念ながら堕落し、完全な存在でない私たちには「悪の心」があります。大切なのはそのことをしっかり理解して認め、その心を安全に制御するためには神の助けが無ければならないと痛感することです。悪魔はしばしば私たちの心に「アクマイト光線」を照射してきます。これ自体は避けられないことです。ですから私たちは悪の心が湧き上がってきたらすぐにそれに気付き、直ちに神の助けによって悪の心の膨張を止めて下さるように祈らなければなりません。悪の心の膨張は誰しも起こる避けられないことですが、その膨張に気付くか気付かないかがその先の結果を分けます。くれぐれも「アクマイト光線」で「こっぱみじん」にされてしまわぬよう。