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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

1月号
​巻頭
「ハリストスによって洗を受けし者ハリストスを衣たり」

 私たち、正教会に属する人間は、一人の例外もなく洗礼を受けています。それはハリストスが復活し、使徒たちに「世界中の人々に父と子と聖神の名によって洗礼を授けなさい(マトフェイ28:19)」と命じられて以来、遂行され続けていることです。キリスト者として生きるということの始まりには必ず洗礼があり、洗礼を受けているということと受けていないということの間には根本的な隔たりがあると言っても過言ではありません。


 洗礼式の最初にまず行われるのは悪魔との決別です。私たち人間は、あるいは世界にあるあらゆる存在は、神によって創造された素晴らしい本性を持ちます。しかし天使の中のある者が悪に堕落し、人間がその悪にそそのかされて以来、その素晴らしい本性は罪と死の醜悪な歪みに汚染されてしまいました。私たちは洗礼を受ける前に、その悪と決別するという強い意志を宣言する必要があります。「悪魔とのあらゆる関わりを捨てるか」と司祭に尋ねられた受洗者は「捨てる」と自分の言葉で意思表明します(乳幼児の場合は代父母が代わりに答えます)。そして洗礼盤の前に進められた受洗者は父と子と聖神の名によって三度水に沈められ、罪に汚された古い人間性を洗い流されます。いや、「洗う」という生易しいものではなく、むしろ「死ぬ」と表現する方が適切かもしれません。水に沈められ、古い人間性は殺されます。洪水によって罪深い人々が滅ぼされたように(創世記6-9章)、ヘブライ人を追い立てるエジプトの軍勢が海に飲み込まれたように(出エジプト14章)、私たちの中に潜む悪もろとも私たちは水の中で死にます。そして死んだ者に次に与えられるのは「復活」です。私たちが洗礼盤から上げられるとき、私たちは死から甦ったハリストスの復活に与ります。イイススはかつてご自身を訪ねてきたニコディムに「人は誰でも新しく生まれなければ神の国を見ることはできない(イオアン3:3)」とお話しになりました。洗礼が私たちに示すものは、この「新しく生まれる」という全く新しい者への改まりです。


 洗礼盤で洗われた受洗者はその後直ちに神・聖神の恵みの印である聖膏という香油を塗布されます。水によって洗い清められ、新しい者へと生まれ変わった受洗者は、今度は聖神を受けます。先ほどのニコディムにイイススは続けて「人は誰でも水と神(しん)とから生まれなければ神の国に入ることはできない(3:5)」と言いました。私たちの新しい人間性は神・聖神を受けることによって成就されるのです。聖使徒パウェルは、私たちキリスト者は「聖神の宮(コリント前6:19)」であると言っています。私たちは自分自身を神に属する者、神に一致する者として神に委ね、聖神の神殿として世の光となります。そしてその神との一致を私たちに実現する方法としてハリストスご自身によって定められたのが聖体機密です。


 聖体は機密の晩餐(最後の晩餐)でハリストスが宣言した通り、主ご自身の肉と血です。私たちはこれを領食することによって神と一致する者となり永遠の生命を得ます(イオアン6章)。聖体を受けることは至聖三者の名によって洗礼を受けた人にしか許されません。私たちが天の国に入ることとは神と一致して永遠の生命に与ることであり、神との一致は聖体を領食することによってもたらされ、その聖体は洗礼を受けた者に与えられます。神が私たちに与えた救いの約束には洗礼という入り口が設けられているのです。そして洗礼はあらゆる人に向けて開かれている入り口です。教会はいつでも人々を洗礼に向けて招いています。多くの人と神の国の喜びを分かち合い、愛する人々とともに救いに与りたいと思っているからです。主の洗礼祭(神現祭)を機に、まだ洗礼を受けていない人も、洗礼を受けることを望む人も、すでに洗礼を受けて長い歳月が経っている人も、改めて洗礼の恵みについて考えてみたいものです。

​エッセイ
​「贈与」

 年末年始はクリスマスがあり、お正月がありで、お歳暮やプレゼントを贈ったりお年玉をあげたり、何かと出費のかさむ時期かもしれません。ではなぜ出費をしてまで贈り物をしたりお小遣いをあげたりするのかと考えてみると、それは贈る相手を大切に思っているからこそでしょう。家族、親類の子供たち、友人、知人のためにお財布のひもを緩めて贈り物をし、それを受け取った人の喜ぶ顔を一番の報いとします。ある高名な人類学者は「贈与」という事柄を人間の重要な社会的活動のひとつとして定義しています。ただの「取引」ではなく、「贈る」ということは、単純な金額的損得勘定以上の大きな意味を持つものです。


 この「贈与」という行動について考えてみると、プレゼントを「贈る側」の人物が重要であることは言うまでもありませんが、同じくらい重要なのが「受け取る側」です。贈られたプレゼントが受け取られなければ、それは贈り物として成立せず、本来そこに生じるはずであった両者の間の喜びや愛情も十分に育まれないでしょう。贈り物は正しく受け取り手に受領されることで初めて成立し、受け取り手が贈り物に対して喜びや感謝を示すことで、贈り手にも大きな満足が生じ、両者の間の強い絆が確認されます。


 さて、これらのことを踏まえて、私たちがキリスト者であるということ、もっと言えばこの世に生きているということを考えなければなりません。私たちは、生命あるものとしてこの世に存在しているということ、一日一日の生活を送っていることを神からの賜物として意識できているでしょうか。私たちが私たち自身であるということは、自明のことでも偶然でもなく、神の意志によると正教は考えます。「あなたに存在してほしいと私が望むから、あなたは存在しているのだ」と、神はすべての人間、全ての生命に存在を与えています。これ以上なく根本的なこの贈り物を私たちは受け取っており、そしてそれに十分な喜びや感謝を示しているでしょうか。さらに神が「あなたに永遠に存在していてほしい」と願い、私たちに与えられた贈り物を私たちは正しく受け取っているでしょうか。その贈り物とはこの世の一員としてお生まれになった神ご自身イイスス・ハリストスであり、ハリストスと私たちが一体となるための聖体であり、教会であり、私たちを包み、導く神・聖神そのお方です。もし私たちがこれらの贈り物を「そんなものはいらない」「贈られても迷惑」と受け取り拒否をするのならば、それは神を大きく落胆させ傷付けることです。人と人との間で許されない不作法を神相手にしてもいいのでしょうか。たとえ愛想笑いでも贈り物は受け取って、「へえ、どんなものかな。一つ試してみようかしら」とパッケージを開ける方がまだマシな態度です。試してみたら思ったより良いモノだったという経験はありませんか。そして良いものだと思ったならば「この前いただいたアレ、すごく良かったですよ」と伝えてあげれば送り手も喜ぶでしょう。私たちが生きるということは神からの贈り物を受け取り続けることだということを忘れずにいたいものです。

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