不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
8月号
巻頭
「神の母の不死の就寝のために天使の会は喜ぶ」
生神女マリヤは復活したイイススの昇天を見送った後、小アジア(現在のトルコ)のエフェスの町で静かに余生を送ったと伝えられています。やがてマリヤに死の時が近づき、主の弟子たちは奇跡的な力によって生神女の臨終に呼び集められました。使徒たちに看取られたマリヤは墓に葬られましたが、後日墓に来てみるとマリヤの遺体はそこにはなく、マリヤが復活して神の元に挙げられたことを使徒たちは知ったと言われています。生神女の死を記憶する生神女就寝祭は、「夏のパスハ」という名で呼ばれることもあり、生神女の死のみならず、生神女が神の元に遷されたことを祝う祭日となっています。就寝祭のイコンではイイスス自らが生神女の魂を抱き取る姿が描かれます。
正教会は生神女の栄光を「ヘルヴィムより尊くセラフィムに並びなく栄え」と讃えます。ヘルヴィムもセラフィムも神の間近に仕える最高位の天使たちですが、生神女はそんな彼等よりもさらに尊く栄光に満ちているというわけです。何がそんな栄光をもたらしたかと言えば、それは神の子である方を生神女が生んだからです。そして生神女がいかに「神を生む者」となったかと言えば、それは従順と謙遜によってです。天使ガウリイルがマリヤの元に遣わされ「あなたは神の子を生む」と告げたとき、マリヤは「お言葉通りにこの身になりますように」と答えました。「処女が子を生めるだろうか」という至極まっとうな疑問も脇に置き、神の旨に従うことが自分の人生であるとその役目を引き受けました。生神女はしばしば「天の門」という言葉で称えられますが、それは生神女を通って、神が人間としてこの世に入り、救いの業を行ったからです。門が頑なに閉ざされていたならば神はそれを無理に押し通ることはしなかったでしょう。門が神の前に従順にその扉を開けたからこそ、神はこの世界に入ることができたともいえます。ハリストスは死を受け入れ、そして復活し世界に救いをもたらしましたが、その始まりは生神女の「はい」という答えから始まるのです。
そんな尊い生神女の死ですから、それはとても特別な形で起きたように感じられるでしょう。教会の伝える生神女の死の出来事は普通のことではないことのように映ります。しかし実は生神女の死と私たちの死は同じ死です。生神女もこの世の生命が尽きて、穏やかに息を引き取りました。それは私たちの死と本質的に全く同じことです。しかし生神女の死にはその先がありました。復活し神の元に遷されるというのはハリストスが自らの死と復活によって全ての人に約束してくださった「来るべき姿」です。一方で約束されているとはいえ、私たちにおいてまだ実現していない姿です。私たちの死は、息を引き取り永い眠りにつくところで未だ止まっていますが、生神女はその先の在り方にいち早く入れられたのです。それは神が私たちの救いの在り方を示すためでした。そして神の旨を実現するために自分自身を捧げた生神女の姿に私たちが倣い、私たちが神の問いかけに「はい」と答えることで神の栄光を示す者となっていくためです。私たちが本当の意味で生神女の従順で謙遜な生き方を自分のものにできたときに、生神女の死の姿は決して私たちと無縁のものではなくなるのです。
エッセイ
「科学か宗教か」
世間ではよく「宗教は科学的、論理的でないから信用できない」という批判がされます。それに対して、「いや、聖書に書いてあることはこのように証明できるから正しいのだ」とむきになって反論するキリスト者もいます。「宗教対科学」という構図はずっと昔からある対立です。科学と宗教、どちらが正しくこの世の真実をつかむことができるのでしょうか。
実は宗教と科学は単純に対立させられるものではありません。人間が観測できる事柄のみを対象として仮説を構築し、それを実験で証明をしていくのが科学です。一方人間が観測し得ないものを実証ではなく「啓示」によって示すのが宗教です。この二つは対立というよりは並行するものです。「宗教が科学的でない」という言葉は正解です。実証し得ない事柄を扱っているからです。しかし一方で「宗教は科学的でないから間違っている」とも言えません。科学的に証明できない「神」とか「天国」とか、それらは「科学的に間違っている」のではなく「分からない」ものです。人間の論理的知性には限界があり、すべてのことが分かるわけではありません。本当に優秀な科学者は分からないものを「間違っている」とは言いません。「科学では証明できない」と言うに止めます。それが科学の謙虚さ、誠実さであり、素晴らしさでもあります。
一方で宗教についても同じことが言えます。何か悪いことがあったとしてそれを安易に「神の罰だ」と決めつけることや、「誰々は地獄に落ちる」というような言葉は本来言えないはずなのです。神が行うことについて「この原因があるから」「この結果になる」と人間が「論理的」に判断することができるでしょうか。旧約聖書に出てくるイオフ(ヨブ)という人物は罪を犯さない正しい人でしたが、彼には数々の不幸が襲い掛かりました。彼の友人は彼の惨状から、何かイオフが罪を犯しているのだと勝手に推測しイオフに悔い改めを促しました。イオフは自分は間違ったことをしていないと反論します。神はこの両者をともに戒めました。イオフに向かっては「お前はすべて知ったような気になっているが、世界が創造されたときのことを知っているのか、私の思惑が分かるのか」と。友人たちは罪のないイオフに罪があるような勝手な推測をしたことに対して戒められました。私たちはつい神のなさることや審判の基準について勝手に理解し把握したような気になります。しかしそれは本当は神にしか分からないこと、人間には分からないことなのだとイオフ記は私たちに教えています。
神の神秘や真実は人間の思考活動の結果分かることではありません。神からの啓示が与えられたときに初めて分かることです。信仰生活の中でどうしても腑に落ちないこと、理解しがたいことにぶつかることもあるでしょう。そのようなときに、自分の限界ある思考力で勝手に因果を推測したり、安易に「これは正しい」「これは間違っている」と分かった気になるよりも、「これは今の自分には分からないなぁ。神さまどうか、いつか教えてください」と判断を保留し、神に全て委ねるほうが良いのです。それは科学者が未だ実証できていないことについて「仮説」として保留するようなことです。科学でも宗教でも「分からない」ということに誠実な人こそ良い結果を残すでしょう。私たちキリスト者も「自分には分からないことがたくさんある」ということを知っている人の方が、より謙虚であり、より素直であり、神の言葉を聞き入れやすいのです。
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