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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

1月号
​巻頭
「爾はイオルダンの流れを聖にして、罪の権を滅ぼせり」

 教会はしばしば「罪」という用語を用います。私たちキリスト者が避けなければならないものとして、罪は語られますが、そもそも罪とはいったい何なのでしょうか。私たちとどう関わっているものなのでしょうか。


 端的に言えば罪とは神の拒絶、神からの離反です。人間の本性が本来神とともにある者として創造されたにも関わらず、神とともにあることを良しとせず、そこから距離を置いている状況は不自然なことであり、この不自然な歪みの状態が罪であると言えます。そしてこの歪みが人間に様々な罪の結果をもたらします。嫉妬や怒り、貪欲や絶望などの心はこの歪みから生じてくる一種の結果です。人間の歪みが次の罪を生み、その罪がさらに大きな罪を生みます。さらに恐ろしいことに、罪は決して一人の人間の中で完結せず、隣人に波及していくものです。例えば誰かの陰口を言ったとします。するとその話し相手の中にも蔑みや怒りの種がまかれることになります。そしてその陰口が回り回って本人の耳に入ったら、今度はその人の心を苦しめるだけでなく、憎悪の黒い焔を燃え上がらせることにならないでしょうか。一人の罪は必ず周りの人を巻き込んでより大きな罪を生むのです。この世に生まれたばかりの赤ちゃんは皆全て純粋無垢です。罪の汚れを知りません。しかし残念ながらこの世界で育っていく中で、無垢だったはずの幼子もこの罪の連鎖の渦に巻き込まれ、やがて大人たちと同じように罪に汚れた存在へと堕落していきます。人間自身がこの世にもたらした罪の汚れが、今や誰も制御できず、どんどん大きく膨れ上がり、ますます人間を汚していきます。この世界は罪の拡大再生産の場となってしまいました。汚れた水で洗い物をしても、決して清潔にはなりません。人間はこの世界にいる限り決して清い者となる事はできないのです。


 しかしその状況を打破するために神の子はこの世界に入ってきました。神である方ご自身が人間という存在を自らのものとし、この世界で生きる一人のお方となりました。それが私たちの救い主であるイイスス・ハリストスです。汚れた水で洗っても物はきれいになりませんが、清浄な水で洗えばやがてそれは最初の輝きを取り戻します。イイススご自身が世界のあらゆる物事に触れ、この世界を浄めていきます。イイススがヨルダン川で洗礼を受けたことはそのことを象徴しています。人間の罪に汚されてしまった世界を象徴するヨルダンのよどんだ水にイイススご自身が入ることにより、水はその本来の清らかさを回復します。イイススを洗うためにヨルダン川があるのではなく、ヨルダン川を洗うためにイイススが水に浸かりました。モイセイが苦い水の泉に小枝を投げ込むと水が甘くなった奇蹟の出来事(出エジプト15:22-24)が神現祭前日の晩課で読まれますが、この出来事はやがて来たるイイススについて預言していたのです。イイススはご自身が人となったことにより、人間のすべてを浄めます。人間の肉体も精神も、感情も欲求も、知恵も愛もです。そして罪が人から人に波及していくように、主の浄めや愛も次々と波及していくのです。イイススが人間となってこの世に入ったことで、人の罪、歪みは正され、それは世界全体の歪みをも正していきます。


 しかし一方で浄めか歪みか、どちらを選択するのかは人間の意志に委ねられています。主が来てなお、いまだ世界には罪の連鎖が渦巻いています。世界で憎しみの奔流が人々を飲み込んでいることを私たちは痛いほど知っています。しかしそれでも、私たち主にあって浄められたキリスト者は、この罪の連鎖を拒むことを選べます。謙遜さによって自分を引きずり込もうとする罪をかわし、愛によって罪の汚れを癒していくことができるはずです。罪に押し流されてしまいそうなときは、それを浄めて下さったハリストスを思い出し憐みを乞うこともできます。洗礼を受けキリスト者となった私たちは、汚れた水ではなく、神によって清らかな水の一滴とされたことを決して忘れてはならないのです。

エッセイ
​「バジュランギおじさん

 インドでは数多くの映画が作られており、最近は日本で上映される作品も増えてきました。そんな中で私の大好きな一本を紹介したいと思います。


 タイトルは「バジュランギおじさんと小さな迷子」。パキスタンからインドに巡礼にやってきた少女シャヒーダはインドでお母さんとはぐれて迷子になってしまいます。しかもシャヒーダは発語に障害があり自分自身について説明することができません。この小さな女の子を一人の熱心なヒンドゥー教徒の青年パワンが保護することになります。しかし警察署に届けても多忙のため相手にしてもらえず、彼は仕方なく居候しているデリーの恋人の家まで彼女を連れて帰ります。一緒に暮らしている恋人の家族は、親身に彼女の世話をしてくれますが、ひょんなことから彼女がイスラム教徒のパキスタン人であることを知ります。インドとパキスタンは、カシミールの領土問題に加えヒンドゥー教とイスラム教の宗教対立の問題もあり数十年険悪な関係が続いています。パキスタンとの戦争で友人や兄弟を失っている恋人のお父さんは、シャヒーダに罪がないことを知りつつも、彼女を家に置いておくことがどうしてもできないと言います。パワンも熱心なヒンドゥー教徒として、決してイスラム教やパキスタンに良い感情を持っていません。しかし目の前の小さなシャヒーダを前に、彼女をパキスタンまで送り届け、彼女の家族を見つけ出そうと一大決心をします。しかしビザもパスポートも持たないシャヒーダはパキスタン大使館でも門前払いされ、パワンは仕方なく密入国という手段を選びます。


 パキスタンに入ったパワンは様々なパキスタン人、イスラム教徒たちと出会います。密入国のブローカー、国境警備隊員、さえないニュース記者、モスクの老師。そのような人々との出会いを通じ、彼は次第にパキスタン人に対して心を開いていきます。パワンは元々善良すぎるほど善良な人物でしたが、それでも国と国、宗教と宗教の因縁は彼の心にある種の偏見を植え付けていました。しかし彼は実際にパキスタンの人々と触れたことで、次第にパキスタン人やイスラム教徒とも分かり合えることを知りました。彼はイスラム教徒に最大の敬意を払い尊重することを学びました。それと同時に彼は最後まで自分がヒンドゥー教徒であることを否定せず、インドの神への信仰も揺るぎませんでした。この映画は「宗教の壁を越えて」などというありきたりなフレーズではなく、本当の信仰心を持つ者の内にある愛と善良さ、寛容さを描いているともいえるでしょう。


 悲しいかな、世界では人々の生命を奪い、尊厳を踏みにじることに、あろうことか「信仰上の正しさ」をもって正当化しようとする言動、言説があります。自分たちの教えに合わない人々を「サタン」と呼び排除する考えがあります。それは決して信仰の正しい形ではありません。本当の信仰と愛を持った人は、たとえどんなに立場や考え、信じる宗教が異なる人がいても、相手への敬意を忘れず、愛をもって丁重に接するのではないでしょうか。それこそが私たちが信じている教えの、もっとも正しい形ではないでしょうか。


 映画はやがて佳境に入り、パワンは絶体絶命の危機に陥ります。その時に彼を救ったものは何だったのか。結末は、どうぞご自身でご覧ください。笑いあり、涙あり、アクションあり、歌あり、ダンスあり、盛りだくさんの素晴らしい作品です。太鼓判を押します。ただし2時間半に及ぶ映画なので、それだけは覚悟を。

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