不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
4月号
巻頭
「爾は墓に降れども、地獄の力を破り、勝つ者として復活せり」
私たちキリスト者は復活祭で、主が十字架刑の後三日目に復活したことを祝います。一度死んだ人間が死からよみがえるということは前代未聞の偉大な奇跡です。使徒たちがそれに強烈な衝撃を受けたからこそキリスト教が始まったとも言えるでしょう。復活が無ければキリスト教そのものが無かったかもしれません。それほど主の復活は私たちにとって重要な出来事です。
また復活に先立つイイススの死がどのようであったのかというのも極めて重要な事柄です。復活祭前の一週間を教会では「受難週」と呼び、ここではイイススの死の直前の出来事が振り返られます。イイススは弟子たちと食事を共にし、この食事の儀式をこの先ずっと続けていくことを命じました。これが私たちが今も祝う聖体礼儀の始まりです。食事の後イイススはゲフシマニヤ(ゲッセマネ)の園で、ユダヤの指導者たちに逮捕されました。指導者たちはイイススを死刑にするために、イイススをローマの総督のピラトに引き渡し、半ば強引に死刑判決をもぎ取りました。イイススは人々に嘲られ、殴られ、十字架に磔られて晒されました。いつも主に付き従っていた弟子たちのほとんどは逃げ去り、主の最期に立ち会ったのは生神女マリヤと女たち、聖使徒イオアンくらいでした。ほどなくしてイイススは十字架上で息を引き取り、心あるユダヤ人であったイオシフによって墓に葬られます。
さて、私たちの救いのために復活があり、その復活のためにイイススが死ななければならなかったとして、なぜイイススはこんな死に方をしなければならなかったのでしょうか。普通に弟子に囲まれて幸せに大往生ではダメだったのでしょうか。あまりに理不尽な死の姿に私たちはしばしば戸惑います。
十字架にかけられたイイススを人々は嘲笑しました。「神の子だと言うのなら、神にお願いして助けてもらえばいいじゃないか」。その通りです。イイススは神の子であり、父と同じく神なのですから、天使の軍団を呼び出し奇跡の力で敵をなぎ倒して、十字架から自ら降りることもできたはずです。そもそも裁判の時に、筋の通らない訴えを論破することもできたでしょうし、あるいはピラトの前で「私は潔白だ」と主張すれば、イイススに同情的だったピラトはローマ総督の強権でイイススを無罪放免することもできたはずです。もっと言えばイウダの裏切りを知っていたのですから、先に逃げ出すこともできました。しかしイイススはそれをしませんでした。
それはイイススが、ご自身の受難が神・父の意志であり、人間の救いの要であることを知っていたからです。イイススもこの苦しみを恐れ、避けたかったということは、「出来ることならばこの杯(苦しみ)を取り去ってください」というゲフシマニヤの園での祈りから読み取ることができます。しかしイイススはご自分の「苦しみから逃れたい」という気持ちよりも神の意志に添い、甘んじてその苦しみを受け入れることを選びました。裁判でも争わず無言を貫き、そして十字架にかけられて死に瀕してなお、自分を苦しめる者たち、嘲る者たちが赦しを得られるよう神・父に祈りました。「彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないのです」。ここに人間の究極の姿があります。人間の絶望の底の底まで沈められて、それでも神に祈り全てを赦すという姿こそ、人間の最も尊い姿なのです。人となった神みずからが示してくださった人間の尊厳の極致です。
この最もみじめで最も尊い死からよみがえったからこそイイススの復活には意味があります。イイススは自らに死を受け入れ、人間の罪がもたらした死の内側に入り込み、死の存在意義そのものを打ち壊しました。人間の罪、すなわち神からの離反が死をもたらしたのならば、逆に全てを神に投げ出したイイススの死は、死そのものの根源を破壊します。そして過去も未来もすべての死者とともに復活し、彼らに永遠の生命を与えました。
イイススの受難と復活は一つに繋がった裏表の出来事です。イイススの受難がみじめで苦しいものであったからこそ、その復活は輝かしい栄光に満ち溢れたものになります。この世界で苦しみや死の淵に瀕している人の側にも、イイススは「私も同じだ」と寄り添っておられます。そして主と同じ復活への道を開きます。復活はすべてのキリスト者にとって最大の希望です。幸せな時も不幸せな時も、この希望をいつも忘れずに生きていくのがキリスト者の生き方なのです。
エッセイ
「形から入る」
大斎の祈祷で、しばしば私たちは膝を床につき、首を垂れて伏拝の姿勢を取ります。自分の罪深さに打ちひしがれていた税吏や、自らの行いを恥じていた罪深い女が涙を流しながらうずくまった姿勢でもあります。これは私たちの「痛悔」の姿勢であり、神に赦しを乞う姿を表しています。また大斎の祈祷文中でも、自分の罪を嘆く言葉がたくさん出てきます。
さて、ここで問題なのは、痛悔の言葉を祈り、地に身体を伏せている私たちに「本当の痛悔の気持ち」があるのかどうか、ということです。口では「神よ、我罪人を浄めたまえ」「我不当の者」と言っていますが本当のところはどうでしょうか。自分の事が、本当に神に全くふさわしくない罪人だと思っているでしょうか。恥ずかしくてとてもまともに立っていられないと、膝から崩れ落ちるようにうずくまって祈った税吏や罪の女と同じ気持ちでしょうか。正直なところ、そこまでの気持ちで大斎の祈祷に向き合える人はそんなにいないかもしれません。伏拝しながら全く別のことを考えていたりするものです(慣れてくると誦経しながらでも他のことを考えることができます!)。私たちの意志は真剣に祈るためには弱すぎるという残念な現実を認めざるを得ません。
しかしだからと言ってガッカリする必要はないのです。正教会の祈りの言葉は定型文で決まっており、それぞれの箇所で所作が指定されています。つまり「心ここにあらず」でも、真剣な痛悔の気持ちが無くても、形だけはしっかり整っているのです。「うわべの形だけじゃないか」と思うかもしれません。まずはそれでいいのです。「形から入る」ということは決して悪いことではありません。誦経者が読む祈祷文を目で追いながら、見よう見まねで伏拝して十字を画いて祈祷に参加していると、やがてその言葉や所作が自分に馴染んできます。まず身体の方が祈りに慣れてくるのです。身体が慣れてくると、今度は心が祈りに慣れてきます。そうやって祈祷を繰り返していると、ある時突然祈りの言葉が心に突き刺さります。「ああ、これはわたしの事を言っている」と。形から入った借り物の祈りが、本当に自分の祈りとなる瞬間です。本気の心があるから祈祷に参加するのではなく、形だけでも祈りを繰り返すうちに、次第に本気の祈祷になっていくのです。
ですから大斎の残り半分、皆さんも祈祷に参加してみませんか?「私はよく分からないから」と遠慮するのではなく、「分からないなりに形だけでも」と思って参祷してみましょう。形から入ったとしても、やがて何かを見つけることがあるかもしれません。そうやって見つけたものは、今後の祈る気持ちの核となります。そこから真剣な祈りが始まります。
まずは「形から入る」「形だけ」それでも素晴らしい。参祷お待ちしています。