不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
1月号
巻頭
「世界を造りし者は世界に現れ給えり」
今月、私たちは二つの大きな祭日をお祝いします。主の降誕祭と神現祭です。降誕祭では主がこの世界に人間の赤子として誕生されたことを、神現祭では大人になった主イイススがヨルダン川で前駆授洗イオアンから洗礼を受けたことを記憶します。この二つの祭は正教会の一年間の中でも特に大きな祭りとして位置づけられており、ある共通のテーマを祝っているということができます。それは「神がこの世界と人々のためにやってこられた」ということへの喜びです。
神という、この世界からもあらゆる他の存在からも超越した方が、その超越性を曲げてまでこの世に入りました。神は人間そのものとなり、人々や世界と直接触れ合える方としてご自身を示しました。またおよそ30年間この世界で一人の若者として過ごしてこられた主は、世界に救いをもたらす福音を告げ知らせるにあたり、まずはヨルダン川で洗礼を受けました。その時、天が開き神・聖神が鳩のような形で姿を現し、同時に神・父の「これは私の愛する子である」という声が響き渡りました。人々と世界に父と子と聖神、すなわち三位一体の至聖三者が初めて明かされ啓示されたのです。
神はこの世界をとても善いものとして造り、その中でも人間をこの世界の代表者として、特にご自身に似せた善いものとして創造しました。人間は神から尊い賜物として自由な意志が与えられ、この意志を用いて神を愛し、世界をもっともっと素晴らしいものへと成長させていくことが期待されていました。しかし人間はこの自由意志を神を拒絶するために用いました。神を離れ、人間自身がこの世の神としてこの世界と関わることを望んだのです。この傲慢さがあらゆる罪を生み出し、この世界と人間自身に死をもたらしました。生命、存在の源である神を拒絶することは自らの生命を拒絶することだからです。
悪と死に汚されてしまったこの世界と人間を神は憐れみました。そしてこの世界を救うために救世主、メシアを遣わすことを預言者を通じて約束されました。その救世主はなんと神ご自身である「神・子」であり、しかもその神である方が、私たちとまったく同じ人間となってこの世にやってこられたのです。「神」であり「人」であるイイスス・ハリストスは、断絶してしまった神とこの世界の懸け橋となり、再び両者をつなぎます。いや、むしろ人間が罪に陥る以前よりももっと素晴らしい状態へと回復するのです。今やこの世界を完全にご自身の内に引き受けられた神・子によって、私たちは至聖三者のもとへと導かれます。神の永遠性が私たち人間にも、そして世界にも与えられます。その道筋が備えられたことが降誕祭の喜びであり、それが明らかにされたことが神現祭の喜びなのです。
かくも大きな喜びを祝うのが降誕祭であり神現祭です。盛岡管轄では降誕祭は各教会で、神現祭は1月19日に盛岡教会で祝われます。ともに祈り、この喜びを味わおうではありませんか。
エッセイ
「機密」
カトリックのミッション系大学に通っていたこともあり、カトリックの人々がいかにクリスマスを大切にしているのか間近で見てきました。プロテスタントの人も含め、西方教会の人々は様々なイベントや飾りつけでクリスマスを祝います。毎年アドベントの期間(待降節、降誕祭までの4週間)になると、大学のメインストリートにはプレゼピオ(イイススの降誕の場面を象った馬小屋の飾り)が設置され、大講堂では有志の学生による「降誕劇」(主の降誕の様子を劇の形で演じる出し物)の練習が始まります。彼らが一年の祭日の中でも特に降誕祭を大切にしており、様々な形でお祝いすることは、私にとってとても印象的でした。
降誕劇もプレゼピオも良いものです。この日のために皆で力を合わせて衣装や大道具を作り、聖母やヨセフの役に選ばれた学生はこの大役を喜びます。馬小屋に並べられた温かい雰囲気の聖家族の木彫り像、かわいらしい動物たち、とても良いものです。しかしこれらはどこか「主の降誕」という2000年前に起こった出来事を遠くから眺め、客観的に再現しているものという印象を拭えません。ガラスケースの中に表現された主の降誕を、ケースの外から眺めている感じです。
ひるがえって正教会の降誕祭。11月の末からフィリップの斎が始まり、12月4日の生神女進堂祭を過ぎると、主日前晩祷の早課で降誕祭のイルモスが歌われるようになります。降誕祭の前日に当たる1月6日には長大な王時課が行われ、晩課に続く聖体礼儀では数多くの旧約聖書箇所が読まれます。私たちが降誕祭を待ち望む気持ちは極めて奉神礼的な形で表現されると言えるでしょう。
私たちの降誕祭には分かりやすい飾りや作りはありません。聖堂の中央に降誕祭のイコンが置かれているだけです。しかし降誕祭徹夜祷においてローソクの灯りの中「神は我等と偕にす」と歌う時、「いと高きには光栄神に帰し地には平安降り」と天使たちの歌を歌う時、私たちは主の降誕の出来事そのものに立ち会っています。また、翌日の聖体礼儀で降誕祭のトロパリとコンダクを歌い、博士の来訪の福音書が読まれ、ともにご聖体を分け合う時、主の降誕は客体的な出来事ではなく、むしろ私たちの内に起きた主体的な衝撃として受け入れられます。
これは理論的というよりは直観的な体験であり、科学的というよりは神秘的なものです。正教会が「機密的」と呼ぶ事柄です。神・聖神の働きにより、教会が私たちの知覚できる以上の真実に入れられることと言ってもいいでしょう。私たちにとって降誕祭の奉神礼は(降誕祭に限らず、復活祭も神現祭も、日々の聖体礼儀もそうですが)劇でもなければ模型でもありません。そこで記憶されている出来事そのものへの機密的な参与なのです。
正教会は奉神礼的な教会なのです。学問でもエンターテインメントでもなく、奉神礼の中に神との機密的な交流があると信じるからこそ、何よりも祈りを大切にするのです。最初は難しくて何をやっているのか分からない祈りも、根気よく粘り強く自分自身を祈りの流れに沿わせていくことによって分かってくるものもあります。それに気づいたとき時私たちは初めて本当の意味で言うことができるでしょう。
「ハリストス生まる!崇め讃めよ!」
降誕祭おめでとうございます。