不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
11月号
巻頭
「蓋律法の行いにおいては、人ひとりも義とせらるるなし。」
今年の11月の主日聖体礼儀の中で、3回にわたり聖使徒パウェルがガラティヤの教会にあてた手紙が読まれます。ガラティヤは小アジア(現在のトルコのある地域)の町で、使徒パウェルの宣教によって福音を伝えられました。しかし彼らはパウェルがその地を離れた後、エルサレムからやってきた別の指導者たちによって、ユダヤ教の律法に従って生きること(特に割礼を受けることなど)を指導され、多くの信徒がこの言葉に従いました。キリスト教のユダヤ教への回帰とも言える運動です。このガラティヤ人への手紙は、パウェルがそのことをたしなめ、正しい信仰に帰るよう促す内容です。
パウェルにとってユダヤ教の「律法を正しく行うことによって義とされる」という考えは、まったくハリストスの福音と一致しない古いもの、過ぎ去ったものでした。律法は私たち人間にとって教育者ではあってもそれ自体が救いをもたらすものではありません。なぜならば私たちは誰一人として律法のすべてを守ることができないからです。律法の役割はそれを守らせることで人間を救いに導くものではなく、むしろ守れないことを通じて人間に自身の弱さを見せつけるためのものでした。パウェルは律法を「呪い」と断言しますが、それは律法自体はむしろ人間を罪に縛るものだからです。
救いをもたらすのは律法ではなく、神が人となったイイスス・ハリストスです。聖使徒パウェルは「ハリストスを信じることによって義とされる」と言います。ハリストスはすべての人間に「神の養子」となる道筋を示しました。神の本性における子は、「神の子=ハリストス」のみですが、ハリストスと一致することによって私たちは神の養子として神の元に受け入れられます。これは私たちが祈りの中で、神に対して「父よ!(天にいます我等の父よ。マトフェイ6:9)」と呼びかけるのを許されていることにも示されています。私たちは神の愛に応え、神への愛を示します。それは洗礼を受けご聖体を受ける形で表現されます。洗礼を受けた私たちは、神を離れ罪に陥っていた古い自分を捨てます。そして全く新しくされた者としてハリストスを衣のように「着る」ものとなります。だから養子として神との愛の関係に入れられたキリスト者が、再び「この決まりを守らないと滅びる」という古い戒律主義に陥ることを聖使徒パウェルは見過ごせなかったのです。
これは今日を生きるキリスト者にも関係する問題です。私たちは神の愛を頼り、神の家族である喜びを祝うよりも、しばしば「戒律」や「罪に対する罰」への怯えに囚われます。善い行いをし悪行を慎むのはもちろん大切なことですが、それは決して「戒律」だからではありません。ましてその善行、悪行の軽重によって私たちの行く末、すなわち天国と地獄が決まるのではありません。神の律法の根幹である「神を愛す」「人を愛す」ことの実践として「善い行い」があり、それを離れた思いや行いが「罪」となるのです。そして神を離れたならば、その都度それを省みて神の元に立ち返り、自分を神の側から離れないようにする、というのが私たちキリスト者の生き方です。それは神に裁かれる生き方ではなく、神に愛される生き方と言ってもいいでしょう。
これは決して教会の決まりやしきたりを軽視していいという話ではないし、悪行を慎まなくてもいいというものでもありません。祈りの習慣や斎は正しく行うべきだし、悪行よりは善行をなすべきです。しかしその根幹にある「愛」を忘れてはならないのです。もし「愛」を忘れて決まりやしきたり、善行悪行のみに囚われてしまったら、それは聖使徒パウェルが嘆いたガラティヤ教会の視野の狭さ、勘違いと同じことになってしまいます。私たちはキリスト者です。ハリストスの福音を信じる者が何を大切にするべきか、いつも忘れずに生きていきたいものですね。
エッセイ
「もうあんなのの世話にならない」
9月号の会報コラムで藤子・F・不二雄の漫画を紹介しましたが、その第二弾。
この短編の主人公は「上居」といううだつの上がらないサラリーマン、妻は夫の仕事をねぎらうこともなく、子供からも尊敬されていません。「自分の思い通りにしてみたい」という上居のもとに突然神さまが現れ「じゃあやってみればいい」と彼のために新しい世界を用意します。新しい世界では上居は全能の神であり、何もないところに次々と光や大地、海、植物や動物を作り出し、最後に人間を創造します。しかし上居が作った人間は上居の言うことを聞かず、人間のために用意した楽園を出て行ってしまいます。
言うまでもなくこれは旧約聖書の創世記のパロディなのですが、ここで興味深いのは楽園を出ていくときの人間のセリフです。上居の造った「アダムとイブ」は楽園から胸を張って歩き出し「いいもん!もうあんなのの世話になんかならないもん」と捨て台詞を吐いていきます。アダムとエヴァの楽園追放について多くの画家が絵を描いてきましたが、この藤子バージョンの楽園追放はなかなか面白い視点です。多くの楽園追放の絵が、善悪の知識の実を食べてしまった罰として、アダムとエヴァがさめざめと泣きながら楽園を追われる姿を描いています。しかしこの藤子バージョンは胸を張って楽園を後にします。しかし正教の人間理解、罪理解から行くと、この藤子バージョンの楽園追放(?)は案外いい線を突いていると言えるのです。
人間の罪とは禁じられた木の実を食べた、神との約束を破ったということ以上に、「実を食べて知恵を得て神のようなものになろうとした」という部分にあります。神を頼り、神の元で生きていくのではなく、自らが神の知恵を得て、神の世話にならず、この世界の神になろうとした傲慢さこそが人間の罪の本質であると正教会は考えます。「約束を破ったから」→「楽園を追われた」という「罪」と「罰」ではなく、むしろ人間が自ら神の元を離れたこと、神の拒絶そのものが「罪」であり「苦しみ」なわけです。人間が自らの罪にさめざめと泣くのはもう少し後で、むしろ「あんなのの世話にはならん」と後ろ足で砂をかけるように神の元を出ていったのです。これは今日の私たちの罪の根っこです。神を忘れ、自分が神に生かされていることを忘れ、全て自分の力で成し遂げているように錯覚し、傲慢さと自己中心性の中に閉じこもっていくことがあらゆる罪を生みます。神への愛も隣人への愛も忘れ、自らの為だけにあらゆる他者(人間もそのほかの物質も)を好きなように扱い、欲しいままむさぼり利用する。人間の罪の姿は、私たちもまた神に向かって「あんなのの世話にはならない」と神を拒絶していることの結果です。
藤子・F・不二雄氏がどのような信仰や人間観を持っていたのかは分かりませんが、このコマの描写には大変感心しました。人間の罪を「約束やぶり」という表層ではなく、その裏側に潜む「傲慢さ、神の拒絶」というレベルで描いていると思うのですが、皆さんはどのように感じますか?