不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
8月号
巻頭
「永貞童女の胎に入りし者は、
彼を生命の母として生命に移し給えり」
私たち、正教徒は毎年8月28日に「生神女就寝祭」をお祝いします。この祭では生神女がこの世の生命を終えた日のことが記憶され、この祭は数多い生神女の祭日の中でも最も盛大にお祝いされる日となっています。
ハリストスが昇天したのち、いくらかの時がたち生神女はやがて自らの死期を悟りました。そのころ使徒たちはハリストスの福音を伝えるために世界中に散って活動していましたが、生神女が死を迎えるまさにそのときに、彼らは光る雲に乗せられて彼女のもとへと連れてこられました。生神女と使徒たちは再会を大いに喜び、皆に囲まれた生神女は安らかに眠りにつきました。そして三日後に生神女の葬られた墓に使徒たちが赴くと、そこには葬られたはずの生神女の身体はなく、生神女がイイススご自身によって天に挙げられたことを使徒たちは知ったというエピソードが教会には伝えられています。
このお話は聖書には記されていませんが、教会の大切な伝承として語り継がれており、この祭日の祈祷文の中にもこのエピソードにちなんだ言葉が散りばめられています。この祭日が記憶するのは生神女の「死」ですが、しかしそれが祝祭なのは、生神女が死んで、そして復活し、神であり自らの息子でもあるイイススのいる天に挙げられたからです。罪によって神から離れ、死すべきものとなっていた人間が、イイススの十字架と復活によって再び神との交わりを取り戻し、永遠の生命を生き得るものとなりました。その復活と永遠の命に与ったことをはっきりと証明したのが、この生神女の死の出来事だったのです(もちろん人となった神であるイイススの復活が最初の証明ですが)。
正教会では生神女について、決して私たちと違う生まれの人間であるとは考えません。西方教会の「無原罪(生神女はアダムの罪責に囚われていない)」や「聖母被昇天(生神女は死なずに天に挙げられた)」という考え方とは対称的です。私たちと同じ人間である生神女が、彼女自身の愛と従順さによって神の母となり、そして私たちと同じように肉体の死を迎えたけれども、神みずからの手によって天に挙げられ永遠の生命に入れられたのだ、ということに私たちは希望を置き、人間全体の喜びとしてこの出来事を受け止めます。生神女の死と復活は私たちの復活の可能性の先取りであり、やがて私たちにも起こるのだという希望がこの就寝祭の喜びを際立たせます。
今年の生神女就寝祭は土曜日に当たります。どうぞ皆さん、教会に参祷して、ともにこの復活の先取りの出来事を祝いましょう。そして希望を新たにして、私たちが眠りにつくまでの人生を善きものとして生きる力が与えられるように祈りましょう。
エッセイ
「悔しくて死にそう」
今回は私が最も好きなアニメ作品のお話をしたいと思います。京都アニメーションが制作した「響け!ユーフォニアム」という、吹奏楽部を舞台にした青春アニメです。主人公の「久美子」は吹奏楽部に所属するごく平凡な高校生で、成績も容姿も普通、ユーフォニアムを吹いてはいるけれどもそれは小学生時代からの惰性で、「まあ別に嫌いじゃないし」という程度のスタンス。キャリアだけは長いのでまあまあの腕前ですが、特に熱を入れて練習するわけでもなし。そんな彼女が、「麗奈」というトランペット吹きの同級生と接近するところから物語は動き始めます。麗奈の「トランペットで特別になる」というひたむきに上昇を求める情熱に感化された久美子は、次第に「麗奈のように自分も上手くなりたい」と楽器に熱心に取り組むようになってきます。しかしその矢先、夏のコンクールに向けての練習の中で、久美子は自分の吹くパートについて、顧問の先生から「そこの箇所はあなたは技量不足なので吹かなくていいです。先輩だけで吹いてください」と担当を外されてしまいます。その帰り道、久美子は全力で駆けながら涙を流し、夜の川に向かって「上手くなりたい、上手くなりたい。悔しくて死にそう!」と絶叫します。
このシーンを見て私は鳥肌が立つようでした。久美子の苦悩と悲しみと怒りと、そしてもっともっと上手くなりたいという気持ちがあまりに生々しく描写されていたからです。人は本気になった時にしか悔し涙を流せません。無気力な人間には悔し涙は無縁です。本気で上昇を目指し、全力で取り組み、それでなお届かない、ということを痛感したときに心の底からの涙と叫びが生まれます。
さて、正教においても「涙」という言葉はしばしば登場します。多くの聖師父たちが「痛悔の涙」が人間を清めると書き残しています。もし私たちが「善き人となる」ということに本気で取り組まないのならば、「痛悔の涙」が流れることはないでしょう。神の喜ぶ人、愛と憐みのある人、罪を離れた人、そういうものになろうと、本気で取り組んだときに初めて、私たちは自分がそこからはるか遠く、弱く、醜く、罪深い存在であると痛感させられます。むしろ取り組む前よりはるかにダメな人間になったような気さえします。その思いに打ちのめされて、涙がとめどなく溢れ「もっと善いものになりたいのに、罪を離れたいのに、なのに全然そうなれない、悔しくて死にそう!」と叫ぶのです。
悔し涙を流した久美子はその後、もう一度ひたむきに練習に取り組みました。続編では久美子が一回り成長した姿が描かれます。私たちにとっても同じことです。悔し涙を流して初めて次の成長が始まるのです。
神は本気で悔し涙を流す人を見捨てません。流した涙でその人を洗い、その涙が乾いたときに、自分が前よりほんの少し善いものになっていたことに気付かせてくれます。そして今度は悔し涙ではなく、神を讃え神に感謝する喜びの涙があふれ出てきます。その喜びは神から与えられた本当の喜びなのです。
「泣く者はさいわいなり、彼らはなぐさめを得んとすればなり」