top of page

​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

12月号

​巻頭

「全地よ、神に歓びて呼び、その名の光栄を歌い、光栄と讃美とを彼に帰せよ」

 神の子が人の赤子として生まれたとき、占星術師の三人の博士たちが東方からやってきて、幼子イイススに贈り物を献じました。彼らは主の降誕を指し示す星を頼りに旅をしてきました。また、天使たちの軍勢は荒れ野に現れて神をほめたたえる歌を歌い、羊飼いたちはイイススとその家族のもとに馳せ参じて讃美を捧げました。大地も主のために誕生としばしの安らぎの場所を提供します。私たちが歌う降誕祭のコンダクはこれらの出来事を効果的に表現しています。世界のすべてがこぞって主の降誕を祝ったのです。

 神がこの世に人間として降誕されたことはこれほどまでに喜ばしいことです。見えない創造物である天使たちも、天の星も、大地に代表されるこの世界そのものも、高貴な王である博士たちも、貧しい羊飼いたちも、すなわち神に創造された宇宙全体が喜びに震え神の藉身(受肉)を讃えました。私たち造られた存在の世界に神を迎えることは、これまで誰も経験したことがないほど偉大な出来事です。

 神と人間の関係性の本質とは、創造の時以来「愛の交わり」です。神は人間を自らの愛に応えるパートナーとして創造しました。しかし人間の罪によりその関係性は人間の側から拒絶され、人間は神の懐を離れて荒れ果てた世界に住む者となってしまいました。豊かで穏やかであった世界も、人間の罪に巻き込まれ危険で厳しいものとなりました。人間は実りの少ない労働に従事し、傷み、疲れ、病に侵され、やがて死にます。人間と世界はその本来の輝きを失いました。


 しかしこのような世界と人間の在り方を回復するために神の子は人となりました。人間が神を拒絶して懐を離れたので、逆に神みずからが人間の中に飛び込んできたのです。今この時から世界の在り方が、人間と神との在り方が大転換する、という予感が降誕祭の期待感であり喜びです。その喜びの気持ちを表現するのが、あらゆる存在が神に捧げた贈り物の数々です。

 私たちもまた、この喜びに対して捧げものを献じましょう。では何が捧げものにふさわしいのか。それは神への愛と感謝に他なりません。神が人間に求めている最高の捧げものは「愛」です。私たちは私たちを存在する者としてくださった神へ、その人間を救うために私たちの一員となってくださったことへと感謝と愛を捧げます。そしてこの愛と感謝を表現するのに最も適切な形とは何かといえば、それは教会に集い聖体礼儀を献じて、ともにご聖体を分かち合うことです。そこにある愛の交わりは神と人間の関係の本質です。聖体機密は神が人となってこの世に入ってこられたからこそ実現されたものであり、人間が神への愛と感謝を表すのに最もふさわしい形です。今年の降誕祭もぜひ、みなで集い、この喜びをともにいたしましょう。

エッセイ
​「ネコ」

 今から十年以上前になりますが、ロシアのワラーム修道院という場所を訪れたことがあります。岩手県と同じくらいの大きさを持つラドガという湖の中に浮かぶ小島に大小いくつもの修道院が点在しており「北のアトス」の異名を持つ「修道院島」です。

 ここでの体験は素晴らしいものでした。聖堂も美しいし、祈りも静けさの中に熱さがあって「正教会の持つ力とはこういうものか」と感動した記憶があります。しかし今回お話しするのはそこの部分ではなく、すこし外したトピックから。それは「修道院に住む動物たち」です。

 ワラーム島は修道士が暮らす島ですが、実は同じくらい動物がたくさん住んでいました。馬や牛、ニワトリなどの家畜、犬、そして私が滞在したスキート(庵)には猫の親子がいました。その猫は決して修道院で飼われているわけではなく、気ままにあちこちを散歩していて、気が向くと修道院の敷地の暖かなところで昼寝をしている、という実にのんきそうな暮らしを送っていました。食べ物も誰かがエサをあげるでもなく、その辺の生き物を取って食べているようでした。都会の野良猫か飼い猫しか知らない私にとって、この猫親子ののんびり具合は少々驚きでした。町で猫に出くわしても、たいがいはこちらを警戒するようにピリピリとした空気を出し、少し動くとさっと逃げる、これが私の持っていた猫のイメージです。しかしこの猫たちは逃げるでもなく、人間に媚びるでもなく、ただ当たり前のようにそこにいて、頭を撫でれば普通に撫でさせてくれるし、ふと見ると修道士の膝の上で昼寝をしたりしていました。仔猫に近づいても母猫は安心して見ています。なんて平和なのだろうか!

 そして同時に周りを見渡した時に、修道士たちもこの猫のように、人を見ても警戒するでもなく、媚びるでもなく、ごく当たり前のように訪問者を受け入れ、優しい顔でニコニコとしていることに気が付きました。ここでは人間も動物も、すべてが当たり前のように調和して、穏やかに生きているのだな、と肌身に感じられる体験です。

世界の調和が乱れているのは人間の罪深さの結果であると教会は教えます。逆にこの島は神を愛する人々が暮らし、町よりも少し聖なるものに近い場所だからこそ、この神の創造した調和の一端が垣間見えるのだろうかと今ならば思います。私たちはこの聖性を、自分たちの住むこの場所で実現できないわけではありません。私たちが神を憶え、神の心に適うように生きることで、この世界はほんの少しだけ真の調和と平安に近づくことができるのかもしれませんね。

bottom of page