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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

5月号

​巻頭

「地の者を天に合わせて光栄の中に升りたれども、
何処よりも離れざりき」​

 5月28日の木曜日、私たちは主の昇天祭を祝います。ハリストスは十字架上の死から復活し、弟子たちに復活したご自身を示しました。そして40日たった日、エレオン山の頂上から天へと昇っていったのです。弟子たちはその出来事を目撃し、エルサレムの神殿で大喜びで神を讃美したと伝えられています。では使徒たちはなぜ、主との別れを喜びとして受け止めたのでしょうか。

 この問いは「昇天」という出来事の本質にかかわる問題です。もし、昇天祭が「私たちの主であるハリストスが天に昇って神の元に帰られた。めでたしめでたし」というだけの意味に留まるのであれば、この祭日の本質は十分に捉えられていません。昇天祭において重要な点は、主イイスス・ハリストスが生身の人間のまま天に昇った、ということにあります。主は決して、昇天の時に人間の肉体を脱ぎ捨てて霊的存在として昇天したわけではありません。私たちと同じ一人の完全な人間として昇天したのです。


 これは、ハリストスが神だから昇天した、というだけではなく、私たち人間にも「天に昇る」可能性が与えられた、ということを示しています。昇天祭の徹夜祷、早課のカノンではこのように読まれます。「主よ、爾は迷いし性(人性)を肩ににない、升りて、神、父に携え給えり」(第七歌頌)。ハリストは完全な神であり完全な人間であるお方です。「人間」という本性が「神の子ハリストス」というお方自身によって、神の元にまで上昇された、ということこそが昇天祭の祝うべき最も重要な点なのです。全き神である「神の子」は人間本性を自分自身のものとしてこの世に入りました。そのことは降誕祭において祝われます。人間の罪の結果、神と切り離されていたこの世界に、神の子みずからが「神性」を携えて入り込まれたのです。そして十字架と復活により、人間を死から生命へと移し、今度は昇天によって、天へと「人性」を携えて昇ります。私たち人間はハリストスの昇天によって、「神の右」すなわち神のすぐそばにいる光栄を受けるにふさわしいものとなりました。使徒たちの讃美した「主の昇天の喜び」の本質はここにあります。

 そして昇天によって私たち人間と、主ハリストスは別れ別れになってしまったわけでもないのです。なぜならば、主は神の右において、依然人間であり続けているからです。神の子は人間の本性を受け取り、完全な人間として藉身(受肉)したのであり、地上での役割を終えたからといって、人間であることをやめたわけではありません。むしろ人間のまま、その人間性を神の本性に合わせ、神と同じく永遠の存在にまで高めました。私たちは聖体を通じてハリストスというお方と一体になり、この完全な人間性を自分のものとしていくことができます。それはハリストスが送ると約束した「神・聖神」の恵みの中に実現されていくでしょう(それは来月祝われる聖神降臨の祝いの中で語られます)。

 私たちは、これらの喜びをしっかりと受け止め、主の昇天を目の当たりにした弟子たちのようにこの祭りを祝いましょう。

エッセイ
​ともに祈る

 今年の大斎は私にとって、司祭になって初めての大斎、そして言うまでもなく受難週も復活祭も初めてのものとなりました。


 「初めて」というのは新鮮であると同時に、いつも不安や失敗と裏腹です。特に大斎の祈祷は毎日誦経箇所も変わりますし、受難週に入れば年に一回しか行わないお祈りばかりになるわけです。そうすると疲れがたまってくることもあってしばしばイライラしたり心の平穏を失ってしまったりします。

 聖大水曜日の朝の先備聖体礼儀の時もそうでした。夫婦二人で早課を始め、相変わらずつっかえたり、読む箇所を迷ったりしている妻の誦経を聞きながら、少し「イラっ」とした気持ちが頭をもたげてきてしまったのです。しかし早課の大連祷を始めたときに背中側から、遅れてやってこられたある熱心な女性信徒の方の「主憐れめよ」という歌声が聞こえてきました。その時に自分でも驚くくらいに、イライラとヒリついていた気持ちが鎮まり、穏やかな心が取り戻せたのです。


 と、同時にいつも聖体礼儀で読んでいる祝文の一節が頭に浮かびました。

「我等にこの公同和合の祈祷を賜い、かつて二三人爾の名によりて集まる者にもその求むる所を賜うを約せし主や」

 これはマトフェイによる福音書18章の「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」という箇所を明らかに反映しています。そのとき「自分はひとりでお祈りをしている気になっていなかっただろうか」と痛切に感じさせられました。そして心が穏やかになったのは、「三人目」の信徒の方とともに「我ら安和にして主に祈らん、主憐れめよ」と声を合わせて祈った言葉を、神が聞き届けて下さったからなのではないか、とも感じられたのです。

 私たちは苦難にあった人、苦しい状況にある人、心の穏やかさを失ってしまった人に、つい簡単に「祈りましょうね」と声をかけてしまいます。それはキリスト教徒としての口ぐせのようなものかもしれないし、またそのくらいしかかけられる言葉がない、ということもあり得るでしょう。


 しかし「二、三人ともにいるところ」にハリストスがいる、と主ご自身が約束しているのですから、「ともに祈る」ということには確かな力があるはずなのです。口癖のように「祈りましょうね」「お祈りします」と口にするのではなく、本当に真剣に「ともに祈れるか」を問われているような気がします。

 いま、Covid19に関して、盛岡の管轄区の状況は全国的に見たら大変恵まれています。「ともに祈る」機会が今のところは奪われていないからです。しかし日本中の、いや世界中の多くの教会が、集まって祈ることを断念し、どうやったら「離れていてもともに祈れるか」を模索しています。その苦しさを私たちは他人事だと思わず、彼らと心を合わせて祈りましょう、この苦しみが早く取り去られるように、と。

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