不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
1月号
巻頭
海よ、爾何事に遭いて走りしか、
イオルダンよ、爾何事に遭いて後へ退きしか
かつてヘブライ人たちは、モイセイ(モーセ)に率いられエジプトを脱出しました。そして後ろからはエジプト王の兵隊に追い立てられ、前は海に塞がれ、まさに絶体絶命という時に、神はモイセイを通じて海を分かちました。彼らは水を通り抜け向こう岸に渡り、一方でエジプト軍は海に飲まれて滅びました。また、40年間荒れ野をさまよったヘブライ人が、イイスス・ナウィン(ヌンの子ヨシュア)に導かれて、約束の地であるカナンに進入しようとした時、今度は轟々と流れるヨルダン川に道を阻まれました。しかし神から与えられた石板を納めた聖なる約匱(契約の箱)を担いだ祭司たちを先頭に、彼らが川に足を踏み入れると、たちどころに川の流れは止まり、ついに約束の地へと入ることができたのです。
さて、イイスス(イエス)の時代、前駆授洗イオアン(洗礼者ヨハネ)という一人の男が、ヨルダン川で人々に神の国の到来が近いことを語り、悔い改めの洗礼を授けていました。イイススは彼によって洗礼を受けますが、人となった神であるイイススは本来罪とは無縁であり、悔い改めの洗礼を受ける必要はまったく無いはずでした。それではなぜイイススは洗礼を受けたのでしょうか。それはご自身が清められるためではなく、ご自身をもって人間と世界を罪から清めるためだったのです。
私たち人間は、いつも神と共にあるもの、この世界と神をつなぐものとしての役割を期待されて創造されました。神と人は愛し合い、その愛の交流の中で世界は人間に実りをもたらし、また人間はその実りを神に感謝する、という在り方です。世界は調和と平安に満たされていました。しかし人間は神から離れました。蛇にそそのかされた人間は、神との交わりに背を向け、人間だけで生きていく道を選んだのです。人間は世界を利用し、文明を築き、大いに発展します。しかし「神のようになった」人間は限りなく傲慢になり、世界に罪が溢れました。人間は自分たちのみならず世界をも、もろともに罪と死に引きずり込んだのです。人間は世界から限りなく実りを収奪し、世界は人間に牙をむきます。そこにはもはや、初めに期待されていた調和と平安はありません。
ハリストスは、人と神との関係を回復し、人間と世界を本来の姿に立ち返らせるために、人としてこの世にお生まれになりました。そしてその第一歩が洗礼を受けることだったのです。かつてモイセイがヘブライ人を率いて海を越えて行ったように、また聖なる約匱が人々の先頭に立ってヨルダンを踏み越えたように、ハリストスもまた水を潜り抜けて、私たちを全く新しい地、神の国へと導きます。ハリストスを浸した水が清められ、そしてその水とともに世界全体が清められました。荒れ狂う海や川のように私たちの行く手を阻む、罪にまみれたこの世界は、ハリストスの洗礼によって清められ、道を開き、私たちはハリストスに導かれて約束の地、すなわち神の国に入ることができるようになりました。
また、ハリストスが水から上がった時に神・父の「これは私の愛する子である」という声が聞こえ、聖神(聖霊)が鳩のような形でハリストスの上に降るのが見えました。ハリストスの洗礼を通じて私たちに至聖三者である神が明かされました。ハリストスの洗礼は、神と人との和解をもたらします。偉大な聖書注解者であるオフリドの聖フェオフィラクトは「鳩が、神の怒りの安らいだことをノイ(ノア)に報せたように、聖神が、ハリストスの洗礼によって神と人とが調停され、人間の罪が清められたことを私たちに報せたのだ」と言っています。私たちもまた洗礼を受けることで、神から「これは私の愛する子である」と受け止めてもらえるようになったのです。
ハリストスによって私たち人間が、世界が、人間と世界の関係が、そして人間と神との関係が抜本的に新しいものに改められました。人が神に背を向け、人と世界が牙をむきあう時代は終わりました。ハリストスによって私たちは神に連なる者となりました。だからこそ私たちはこの神現祭の祝いを慶ぶのです。この新しさを、神の現れを共に祝い合いましょう。
※神現祭は1月19日に行われました。
エッセイ
「情報」?「体験」?
昔、バイクに乗るのが好きで、休日にはよく名所旧跡をツーリングしていました。7、8年前のある休暇、和歌山県の高野山に走りに行きました。高野山は空海によって開かれた金剛峰寺がある山で、真言宗の本山です。奥の院を見て回ったあとに、講堂を覗くとお坊さんが何やらお話をしていました。よその宗教はどんな話をしているのか、ちょっと気になって立ち寄ってみますと、こんなお話。「最近は便利な世の中になって、欲しい情報は何でも、皆さんがお手に持っているスマートフォンやパソコンで手に入れることができます。試しに『高野山』と検索してみれば、私より詳しいぐらいに御山の情報が溢れています。しかしね、情報というものは消費されてしまうんです。たくさん情報を集めても、すぐに興味がなくなって、次から次へと新しい情報を貪る。情報だけでは身にならないんです。大切なのは体験です。御山の歴史や、真言宗の教義を検索するよりも、灯明の一本でも仏様に差し上げる、お経の一行でも写してみることの方がよっぽど意味があります。身に刻み込まれて、体験が一生残るんですよ」。後ろの方で聞いていた私はうなってしまいました。これって正教会にも通じるよなぁ、と。
私たちは本を読んだり、ネットを使ったりすれば、正教会についてかなり多くの情報にアプローチすることができます。キリスト教の成立について、ローマ教会の分離とその後の宗教改革の歴史、正教会のそれぞれの総主教座について、イコンや聖歌について、ギリシャやロシアの正教会文化、色々な情報が、色々な人の手によって公開されています。もちろんそのような情報はたいへん有用なもので、教会について知識を得れば、その生活はより豊かなものとなっていくでしょう。しかしもしそこに体験の裏付けがないのなら(祈祷に参加した体験、十字を画いた体験、伏拝した体験、そして領聖の体験etc.)、その知識は宙に浮いてしまい、やがて忘れられてしまいます。それではもったいない。
正教会の「体験」は実に奥深く、「全部体験し尽くした」ということが絶対にないと言えるほど広大です。毎回参祷している聖体礼儀でも、ある日全く新しい体験を感じることもあります。旅先の教会や修道院で驚くような愛や聖性に触れることもあります、聖書や本に書いてあったことが「このことか!」と分かる時もあります。そして、あるいは分かった気になっていたことが全然分かっていなかったことに気付く瞬間もまたあります。そのような体験は骨身に残って、自分にとっての一生の財産となります。
神は時に応じて、そのような体験を用意して、人々を待っているのかもしれません。あの日、バイクを走らせて高野山でたまたまあのお坊さんの話を耳にしたのも、もしかしたら神さまの導きだったのかもしれないな、とも思うのです。