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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

3月号
​巻頭
「我爾に七次までと言わず、すなわち七十次の七倍まで」

 大斎は痛悔の期間です。来たるパスハに備え、普段の自分がいかに神の喜ぶ姿から遠ざかり、罪深い生活、罪深い心のありようをしているのかを見つめ、悔悟の心をもって神に赦しを乞うことが求められます。食物の節制も、頻回の長い祈祷もそのためにあると言ってよいでしょう。より善い者になるためにはまず自分の悪い点、直すべき点が明確に見えなければ改善しようがありませんし、自分自身をきちんと正確に観察することができるようになればなるほど、自分自身の力で自分を善くしていくことなどできないことが分かってきます。逆説的ではありますが、自分をより善い者へと変えていくために、自分自身の改善できなさを知るのが大斎の意義であり、自分の至らなさを知った時、私たちは初めて「謙遜」という徳を得ることができるのです。今や、自分自身の力で罪を離れ、より善い者になっていくことが不可能であると知った私たちに残されているのは、神に罪の赦しを乞い、神の憐みにすがることだけです。大斎は「赦し」を求める期間であるとはそういうことです。


 さて、では私たちが「赦し」を乞うのではなく「赦しを乞われた」場合はどのようにすればいいのでしょうか。この世に生きている以上、私たち自身が罪人であるのと同じように、世界に住むあらゆるすべての人々は多かれ少なかれ罪人です。他者と接するということは不完全な人間同士のコミュニケーションが行われているということであり、そこではしばしばトラブルやわだかまりが発生します。悪気が無いのは分かるけれども不愉快な気持ちにさせられることもありますし、嫉妬や軽蔑を向けられることもあります。あるいは明確な悪意によって攻撃されることさえあるのが、この世の中で生きるということの現実です。舌打ち一つで済むような事柄もあれば、一生恨み続けるほどの悪をぶつけられることもあるかもしれません。それらの悪について、赦しを求められたら私たちはどのようにすればよいのでしょうか。


 聖書を読めば答えは簡単に見つかります。ハリストスは兄弟から向けられた罪を「七回の七十倍まで赦せ(マトフェイ18:21-22)」とおっしゃっています。また罪に罪で報いるのではなく「右の頬を打たれたら反対の頬も差し出せ(マタイ5:39)」とも言われています。とは言え「さあだから赦しましょう」とはならないのが現実を生きる人間の心です。一生残るようなトラウマに苦しんでいる人に、お気楽に「赦せ」とはなかなか言えないものです。極論すれば、身内を殺されたり、力ずくで性犯罪にあったり、あるいは親から虐待されて育った人に、ただ「赦せ」と模範解答を与えて終わるのはあまりに無責任です。場合によっては「赦しを乞う」ことよりも「赦しを与える」ことの方がはるかに難しいことだってあるのです。


 そもそも罪とは理不尽なものです。恨みの情念に囚われて生きることは確かに罪ですが、しかしその恨みの原因をぶつけられたことに対してその人には何の責任も無いのです。たまたま悪意の対象に選ばれ、ひどく傷つけられ、恨みというとてつもなく重い負債を背負わされる羽目になってしまった気の毒な人々がたくさんいます。私たちが恨みもなく朗らかに生きていられるのだとしたら、それはたまたま運が良かっただけです。世の中には何の落ち度もないのに大きな罪の渦に巻き込まれ、莫大な大きさの恨みを抱えて生きざるを得なくなった人たちが確かにいるのです。本人の意思とは関係なく恨みという罪の負債を持たされてしまった。その理不尽さを知ってなお「赦せ」と言えるのでしょうか。


 しかしそれでも教会は「赦せ」と言うことでしょう。赦すというのはただ相手を無罪放免にしてやるというだけのことではありません。自分自身にのしかかり苦しめる恨みから自分を解き放つという意味もあるはずです。一度にすべての恨みを手放すことはできないでしょう。それでもほんの少しずつでも恨みを捨てていくという方向性を選ぶことはできるかもしれません。恨みを捨てることが塗炭の苦しみを伴うこともあるでしょう。恨みを抱き続けるのも捨てるのも苦しいのです。しかし神はその苦しみを見守ってくださっています。「どうしても赦せない!」という苦しさに神の前に泣き叫ぶこともあるかもしれません。しかし赦そうと七転八倒しながら苦闘する人を神はひときわ愛することでしょう。その苦しさは主・神ハリストス自身の苦しさだったからです。十字架にかけられたハリストスは、ご自身を裏切り、侮辱し、そして殺したユダヤの人々を赦し、彼等の為に祈りました(ルカ23:34)。


 大斎は赦しを乞う期間でありながら、また同時に赦しを与える期間でもあります。とても難しい課題です。赦しに取り組むと心が折れそうになります。だから私たちには祈りがあります。祈祷の中で赦しに苦しむ自分のありのままの姿を神に吐露し、勇気と力を与えて下さるよう祈りましょう。その大斎を過ごした後に迎えるパスハに、罪と恨みから甦った私たちが喜びをもって立ち上がれるように。

​エッセイ
​「かもしれない」

 交通安全のための心構えとして「かもしれない運転」というものがあります。「歩行者はいないだろう」「あの車は出てこないだろう」ではなく「歩行者がいるかもしれない」「あの車が急に飛び出してくるかもしれない」と常に危険を織り込みながら注意深く運転する姿勢のことです。自分の運転技能を過信せず、いろんな可能性を想定しながら運転することで交通の安全性を高めていくことができます。


 さて、いよいよ大斎が始まりますが、大斎の期間に私たちが修養すべき心の在り方のひとつが、この「かもしれない運転」の心構えです。何も自動車の運転に限った話ではなく、人生のあらゆる局面において「かもしれない運転」は重要です。得てして人間は自分自身の事柄については採点が甘く、何か問題が持ち上がった時についその原因と責任を自分の外に求めがちです。自分にとって不本意な現状は「社会が悪いから」「あの世代が悪いから」「あの国や民族が悪いから」「あの人が悪いから」。このように粗雑な断定をして、とりあえず自分に責任が無い前提で生きている姿は、まるで「この道では私がルールだから全ての人が私に道を譲るべきだろう」という安全運転からは程遠い姿勢のようです。しかしこんな運転ではやがて誰かや何かとぶつかって大事故を起こしてしまうのが関の山でしょう。そうではなく、ある問題について「私に何か間違った部分があったのかもしれない」「この人がこういう態度をとる背景には何か事情があるのかもしれない」といったんあらゆる可能性を除外せず、結論を棚上げにしてでも性急な断定を避ける姿勢が必要ではないでしょうか。そうすることで無用な事故を避けることができるかもしれません。


 大斎の祈祷では何度も「我、罪人」という言葉が出てきます。「私たちは罪深い」という自己意識。これを心の底から実感できるところにはなかなか至らないかもしれませんが、それでもあらゆることについて「もしかしたら自分が罪深いせいかもしれない」と慎重なチェックを重ねる心がけは少しずつ身に付けていくことができます。


 また逆に辛い出来事があった時に「辛い」「しんどい」「私は不幸だ」という思いに溺れるだけではなく「これも神の何らかの思し召しかもしれない」と思うことができるのならば、その辛さも少し軽いものになるでしょう(ただしこれも「これは神の思し召しに違いない」と性急に断定してしまうことは危険です。まして他人が決めつけていいものではありません。あくまで「かもしれない」)。


 ともあれ、私たち人間の認識力は物事を「○○である」と断定するにはあまりに能力不足です。そのことを謙虚に受け止めるならば、私たちはあらゆる事柄について「かもしれない」を積み上げて判断していくしかありません。その慎重さが他者への優しさや寛容さという美徳にゆくゆくは繋がっていきます。大斎に向けて改めて人生の「かもしれない運転」について考えてみましょう。

​お問い合わせ

盛岡ハリストス正教会(司祭常駐)

019-663-1218

 

岩手県盛岡市高松1丁目2-14

1-2-14 Takamatsu, Morioka city, Iwate pref. 

morioka.orthodox@gmail.com

北鹿ハリストス正教会

秋田県大館市曲田80-1

​80-1 Magata, Odate city, Akita pref.

http://www.wp-honest.com/magata/

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山田ハリストス正教会

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​1-4-3 Otokoishi, Esashi, Oshu city, Iwate pref.​​​

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