不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
11月号
巻頭
「爾等もし転じて幼児の如くならずば天国に入るを得ず」
七五三という日本の習慣があります。子供の健やかな成長を祝い、今後の発展を願ってお宮参りをする行事です。日本の正教会でも「子供の成長を祝い神に感謝する」という意義で七五三に合わせて子供を集め感謝祈祷をする場合があります。ほんの百年ほど前までは、身体が小さく成長途上である子どもは、いとも簡単に死ぬものでした。そんな子供が、三歳、五歳、七歳と齢を重ねていけたことは、それだけでも祝うに足るほど重要だったことがうかがえます。また社会にとっても、子供は将来の共同体を引き継ぎ、その主力として社会を支え、次の子供を産み育てていく存在です。子供が宝であるという認識は家族の枠を飛び越えて共同体全体の意識として共有されるべきものです。
さて、正教では子供をどのような存在であると考えているでしょうか。最初に思い浮かぶのはハリストスが子供についておっしゃった聖書箇所です。マトフェイによる福音書18:1-4では、主が子供を示して、この幼子のようなものが最も天国に近い存在であると言ったと記述されています。また自分のところにやってきた子供たちを「天国はこのようなものたちのものだ」と祝福しました(マトフェイ19:13-15)。子供は弱く親の庇護無しには生きていけません。それをよく知る子供は、親の愛を信じ、頼り、親の側を片時も離れようとしないでしょう。親もまた子供を深く愛し、生存と成長に必要なものを与え、優しく見守ります。神と人との関係は本来そういうものです。神に寄り添う人間と、人間を愛し必要なものを満たす神という関係であり、これが完全に成就した状態が「天国」であると言えるでしょう。子供は大人よりもか弱く、知恵や知能もまだ十分に成長していませんが、大切なことは誰より一番知っているとハリストスご自身が子供を指し示して教えてくださっているのです。
ですから私たちが教会に子供を迎えるということは本当に素晴らしいことです。第一には子供を生かし育むのに最も大切な糧を与えることができるからです。神ご自身の血肉であり永遠の生命をもたらすご聖体を与え、子供を神の愛に浴させることは、キリスト者として、子に最も必要な「栄養」を得させる行いです。第二にこの自分たちの教会を担う次の世代を育むことになるからです。ハリストスは教会を、すなわち洗礼を受け聖体を分かち合う集まりを世の終わりまで行うよう命じました。この教会を担う次の世代の育成無くして、どのように私たちはこれを世の終わりまで引き継いでいくことができるでしょうか。そして何よりも第三に、私たちは子供たちの姿から神の国を学ぶことができるからです。ハリストスのおっしゃった「天国はこの幼子のような者たちのものだ」という言葉の意味を、私たちは子供の姿を通して学ぶことができます。
子供たちは教会の宝です。連れてきたら子供がうるさいのではないか、迷惑ではないかなどと思わないでください。むしろ子供が騒いでうるさい、祈りに集中できないなどと思う大人の方が未熟なのです。子供が溢れていることほど、教会が天国のかたどりであることを示す事柄はないのですから。
エッセイ
「ドナルドダック」
ドナルドダックを知っていますか?ミッキーマウスと並び、ディズニーを代表するキャラクターで、水兵の制服がトレードマークのアヒルです。かつてディズニーはドナルドを主人公にした短編をたくさん作りました。
ドナルドの登場する短編には典型的なパターンがあります。ドナルドが楽しいレジャーを準備する場面で物語が始まります。しかし次々とトラブルが発生し、癇癪を起こしたドナルドがそれらを挽回しようと躍起になればなるほど事態は混迷を極め、最後にはすべてを台無しにしてしまうというものです。例えば家にアリが入り込み、ドナルドは様々な手段でアリを駆除しようとしますがいずれも上手くいかず、最終的には家ごと爆破する羽目になってしまう、など(書いていて思いますが酷い話)。このようにどんどん頭に血が上り、喚き散らしながらトラブルの泥沼に嵌っていくドナルドの姿を私たちは笑いながら視聴します。しかしこれ、本当に他人事として笑っていられるような事柄なのでしょうか。
私たちもしばしば、物事がやることなすこと上手くいかず、手を打てば打つほどすべてが裏目になり、何もしなかった方がはるかにマシだったという事態に直面します。天気予報は晴れと言っていたのに急な雨に降られ、急いでタクシーに乗ったらお金が足りず、仕方ないのでお金を下ろそうとコンビニに寄ったら濡れた床で滑って転び、外を見たらもう雨が上がっていた、というような。もう何なんだよ!と毒づきながら床を蹴ったら今度は足の小指を折ってしまう。ドナルドダックなら笑って見ていられますが、いざ自分の身に降りかかったらみじめで情けないことこの上ありません。私たちは物事がうまくいかない時、多かれ少なかれドナルドのようになっているのかもしれません。
これはそもそも、物事について「自分の思い通りになるべきだ」と思い込むからこそ起こることです。知らず知らずに傲慢になっているのです。自分の思い描く「理想の状況」があり、そこからズレてくると、だんだんにイライラしてきたり不安や焦燥感に駆られたりします。奢った心が心の不安定さを招きます。そしてそれを挽回しようとジタバタともがくのには、どこかに「自力で物事は挽回できる」とこれまた傲慢な気持ちが見え隠れします。もちろん理想の状況を望むのも、その実現のために努力を惜しまないのも大切なことです。しかし物事の結果如何は自分自身に属することではなく、時には自分の望まない形になる事も、努力が実らないことも受け入れる必要があります。それを忘れると、私たちは望まぬ状況にますますムキになって頭に血が上り、やることなすことすべてが新しいトラブルとなって降りかかってくるドナルドダック的状況に陥ります。
では私たちはどうすればいいのか。ひとまず今の状況を神に与えられたものだと受け入れることです。その上で今すぐ何か手を打つ必要があるのか、今しばらく様子を見るのか、冷静に祈りの気持ちを持ちながら考えることです。そして何かの決断をするならば、それが神の心に適うことであることを願い、その結果は神に任せて受け入れる覚悟を持つことです。これだけでドナルド的状況は激減することでしょう。人間は得てしてピンチの時ほど「自分の理想」「自分の責任」「自分で解決」と「自分」「自分」のエゴイズムに囚われがちです。そしてそれが良い結果をもたらすことはあまりありません。
「あ、今自分はドナルドダックになっている」と思った時、ひとまず立ち止まって神のことを思う。その余裕を恩寵としていただけるよう祈りたいものですね。
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2024年9月号